第113話 オヤジのピアノ
結局、僕には結論らしい結論がその場では出せなかった。
ただ今は出したい音を出す。それがお嬢のお陰で聞こえるようになった音であっても、それ以上に自分が良い音だと思ったらその音を出したい……そう思っていた。
コンクールとか藝大はあくまでも通過点だと割り切っていいのだろうか……。
オヤジに言われて、はたと気が付いた。僕は今までジャンルなんて意識したことがなかった。
たまに耳について気に入った曲はコピーして自分なりに編曲して弾いていたりはしていたがそれだけだった。
そういう意味では好きな曲を弾いていたといえないこともない。
そう、オヤジに言われて初めて僕は、クラシックにいつの間にか拘ってしまっていた事に気が付いた。
オヤジはまだ何か言いたそうだったが、『敢えて言わない』みたいな空気を醸し出していた。
僕が黙っていたからなのか、オヤジはグラスを持ち上げて、そのグラスに語り掛けるように話し出した。
「以前は譜面に忠実なピアノを弾く男。『五線譜の申し子』みたいな音を出しとったのに、お嬢と会ってからは音の粒の世界はカラフルである事を知ってしまった。あまりにも情報量が多過ぎてそれを消化しきれていない……か」
オヤジはグラスのスコッチを飲み干すとゆっくりと立ち上がった。
トイレにでも行くのかと思っていたらカウンターの横の鎧戸を開けてピアノの前に座った。
――え? もしかしてピアノを弾くのか?――
と驚いている僕を横目にオヤジは鍵盤蓋を開けた。
安藤さんの顔を見ると
「あいつ、たまにここでピアノ弾いてんで」
と事もなげに言った。
「ええ?!」
僕は驚いた。オヤジはもう完全にピアノを辞めて、それ以来鍵盤には指も触れていないものだと思っていた。そんなオヤジがオヤジの指が今鍵盤の上に乗っている。
「でも、弾く時は酔っぱらった時だけやけどな」
安藤さんは笑いながらそう言ったが、何故か寂しそうに見えた。
オヤジはポロンと手慣れた音を鳴らすとそのまま綺麗なメロディを奏でだした。
たまにしか弾かないピアノの音ではない。透明感のある良い音だ。
その曲はEaglesの曲だった。
オヤジが洋楽を? あまりにも唐突だったので僕はその光景が頭で処理できずに、黙って見つめていた。
イントロを一度切って、一呼吸入れてからオヤジは歌い出した。
「Desperado……」
謳いだしは言って聞かせるような始まりだった。そしてオヤジの歌声は少し鼻にかかったしゃがれ気味の優しい声だった。流暢で自然な発音だった。
――こんな声で歌うんや――
僕はオヤジの事をまた一つ知った。
お嬢に出会ってからは何度か頭の中でイメージで浮かんでくる姿は見たことがあったが、現実に目の前でピアノを弾いているオヤジを見るのはこれが初めてだった。
そう今まで見ていたのは、若かりし頃のオヤジの姿ばかりだった。
今、僕の目の前でピアノを弾いているのは今現在の僕のオヤジだ。高校生時代のオヤジではない。加齢臭がそろそろ漂ってきそうな僕のオヤジだ。そして目の前でライブだ!
正直言って僕は興奮していた。
軽く弾いているのに音はしっかりと出ている。単なる弾き語りの伴奏で弾いている音ではない。しっかりと主張を持った音の粒だ。
その音の粒はオヤジの声に絡まって優しく木の壁に吸い込まれていく。
本当に味のある良い声だ。ピアノの音とオヤジの声がよく合っている。酔っぱらっている割には姿勢は良い。
――オヤジのピアノを弾く姿は恰好が良い――
僕は少し見惚れていた。
オヤジの声を聴いていると、なんだかオヤジに励まされているような諭されているようなそんな気分だった。下手に言葉で諭されるより心の奥深くにズンと響くものがある。
2コーラス目に入るといつ間にか取り出したギターを片手に、カウンターの中で安藤さんがアルペジオをつま弾き出した。
ギターの旋律はピアノの音に沿うように流れだし、そして徐々に絡んでいき自然に溶け合っていた。
オッサン二人のコーラスはなかなか渋い。
オヤジはチラッと横目で安藤さんの顔を見てそのまま歌っている。安藤さんはギターのネックをちょっと持ち上げて軽く弦をチョーキングした。
昔からこの二人はこの呼吸でこうやって歌ってきたんだろう。
ピアノの音の粒とギターの音の波がオヤジの声を乗せて流れていく。
僕はオッサン二人に優しく励まされているような気がしてきた。
そうだ。音楽とはこういうモノだ。僕がここ最近考えていたのは一体何だったのか? まるで物理の問題を解いているような気持になっていた。
僕はピアノが弾きたいだけなんだ。オッサン二人に頬を叩かれて目が覚めたような気がする。
――オヤジ、ありがとう――
口には恥ずかしくて出せない言葉を僕は心の中で呟いた。
ほんの数分の一曲だけコンサートだったが僕は聞いていて何故か目頭が熱くなっていた。
ああ、音楽というのは一瞬で人を感動させる事が出来るんだと。そんな当たり前の事をオヤジはピアノを弾いて教えてくれた。
でもオッサン二人に泣かされたと言われたくなかったので、天井を見上げて必死で我慢した。
オッサン二人のコンサートはあっという間に終わった。
アンコールもない。
――もっと聞いていたかったな――
そう思っていたが、これ以上続けられると本当に涙が心の汗として出て来そうだったので黙っていた。
オヤジは弾き終わると静かに鍵盤蓋を閉め、立ち上がって鎧戸を丁寧に閉じてカウンターの席に座った。
カウンター越しにオヤジと安藤さんは拳を軽くあてた。
「久しぶりに聞いたわ。お前の『Desperado』」
「そうやな。相手が相手だけにな」
「ああ。ほんまにな」
と安藤さんが僕の顔を見て笑った。
「安ちゃん、喉、乾いたわ。ビールくれ」
オヤジは氷だけが残されたロックグラスを軽く振った。
「ほい。ビールでええんやな」
安藤さんは冷えたビアグラスをオヤジの目の前に置いた。
オヤジは美味しそうにビールを一気飲みしていた。
「くぅ~。美味いわ」
五臓六腑にしみわたっていそうな声だった。
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