第248話 巨匠

 演奏が終わって僕達は控室には戻らずにそのまま会場の元居た場所に戻った。

宏美が笑顔で迎えてくれた。オヤジの隣で鈴原さんも笑顔で迎えてくれた。


「良かったぞぉ!!ホンマに鳥肌が立つぐらい凄かったぞぉ」

と僕と冴子の顔を交互に見ながら鈴原さんは言った。


 オヤジと宏美はその様子を見て笑っていた。

僕はこの前のコンクールの後のロビーを思い出していた。


――なんだかつい最近見た様な光景やな――


 それはさておき、僕たちの演奏はオヤジにはどう聞こえたの確認したかったが、その前に見知らぬ白髪の外人に話しかけられてしまった。

見るとブラウンのツイードジャケットを着た白髪の六十代ぐらいの白人男性が、目を見開いて僕たちに話しかけてきていた。


 その人に僕は見覚えがあった。

クリスマスパーティーが始まっても、食事もとらずにワイングラス片手に最前列で僕達の演奏をずっと聞いてくれていた人だったが、それ以外でもどこかで見た事があるような気がしていた。


 その人は片手に持っていたグラスをテーブルに置くと、感極まったように何かを叫びながら僕に抱きついてきた。僕はその勢いに驚いて、この人が何を言っているのかさっぱり聞き取れなかった。


 オヤジがその様子を見て笑いながら

「その人なぁ、マエストロ・ヴァレンタイン。とっても偉い指揮者やで」

と教えてくれた。


 その名前なら僕だって知っている。アメリカの有名な交響楽団の常任指揮者だ。だから見覚えがあったんだ。

しかしそんな人が何故なぜこんなところにいるんだ? 何故オヤジがそんなに当たり前のように知っているんや?


写真や映像でしか見た事のがない巨匠は、恰幅の良いちょっとお洒落なおじさんとして僕の目の前にいた。


 そのマエストロが僕の両腕を両手でがっしりと掴んで

「ブラボー!!」

と言って両腕をバンバン叩いた。表現が情熱的な巨匠だ。


 そして冴子に向かって同じようにもう一度言った。

冴子はにこやかに笑みを浮かべて

「I haven't seen you for a long time.How have you been?」

と普通に英語で応えていた。

何故か冴子の英語は何を言っているのかすぐに判った。


――なんでそんなに普通に落ち着いて返事してんのや。もしかして冴子も知り合いなんか?――


と僕は少なからず驚き、そして冴子の落ち着き払った態度に少しだけ焦りを覚えた。

でも、そのお陰で僕も落ち着いてマエストロの言葉に耳を傾けられる余裕も生まれた。


 マエストロは僕達にも分かる様にゆっくりと話しかけてくれた。


「とっても素晴らしい演奏でした」

と日本語だった。落ち着かなくても、これなら判る。巨匠は日本語も堪能なのか?


「ありがとうございます」

僕と冴子は同時に頭を下げた。もちろん彼女も僕も日本語で。


「二人は一平にピアノを習ったのですかぁ?」

と巨匠は微妙なイントネーションで更に聞いてきた。


 すかさず鈴原さんが

「冴子は一平にこの一年ほど習っているかな、彼……亮平は実は一平の息子や。そして二人とも昔から伊能成子にピアノを習っている」

とマエストロに教えた。


 彼は驚いたようにのけ反ってから、落ち着くように深呼するとオヤジに向かって何かを言おうとした。

その前にオヤジが

「間違いなく俺の息子やで。マエストロ」

と笑って答えた。

そして

「俺は何も教えてへんけど、息子は何かと俺の物まねが得意みたいやなぁ」

とまた笑った。


 

 マエストロは視線を移すと黙ってじっと僕の顔を見つめていたが

「それでか……彼のピアノが一平に似ていたのは……でも、それだけではない。もう二度と聞く事が無いと思っていた調べを彷彿させる音でした。でも、確かに似てはいるが一平とは微妙に違う音だ。そしてこの二人が同じ師匠に習っているのは聞いていてすぐに判った。この曲を選んだのはそう意味で正解だ。見事な演奏だった」

と僕たちの演奏をたどる様に、こめかみに指を当てながら話した。


 マエストロは更に二言三言、言葉を続けてから

「彼らをこれからどうしたいんだ?」

とオヤジに尋問するように聞いた。


 オヤジは両手を大きく広げて

「さあ? ま、我が息子はピアニストになりたいと言うてるけど、冴子はヴァイオリニストを目指しているんやないかなぁ?」

と肩をすくめながら応えていた。オヤジにして見れば『目の前にいるんだから直接聞け』と言ったところだろう。


 マエストロ・ヴァレンタインは眉間に皺を寄せて暫く何かを考えているようだったが

「一平、後で時間を貰えるか? 相談したい事がある」

とひとこと言った。


 そして僕の両肩に手を置き

「あなたはもう少しグランドピアノに慣れた方がよい」

とまた目を見開きながらそう言って去って行った。


 僕は鈴原さんが慌てた様にマエストロの後を追いかけて行くのを見つめながら、肩にどっしりとマエストロの腕の重みを感じていた。

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