第69話 月と6ペンス

「このカクテルね……克っちゃんが大好きやった『月と6ペンス』ていう小説の作者サマセット・モームっていう作家が好んで飲んでいたカクテルなん。『いつかこれをラッフルズホテルで飲むねん』って言うとったのに、飲まずに逝きやがって……連れて行ったるって言うとった癖に……」

と仁美さんは僕と宏美に教えてくれた。とても寂しそうな仁美さんの表情が心に残った。


「あいつ陰でそんな事言うとったんや……」

安藤さんが軽く眉間に皺を寄せて、ボソッと独り言のように呟いた。


「お前ら二人で仁美を取り合っとったもんなぁ」

とオヤジはこの場の重い空気も物ともせずに、いつもと同じようにツッコミを入れていた。

しかし、それはこの場のオヤジの役目だったかもしれない。


「いや、そんな事は……」

と否定しかけた安藤さんに


「あったよな」

とオヤジは畳みかけていた。


 そんなオッサン同士の話は聞き流して

「ユノ、あんた克っちゃんと同じ美術部やったやんな」

と仁美さんが何か吹っ切れたような顔でオフクロに聞いた。


「う、うん、そうやで。一緒に芸大予備校も行ってたし……いつも仁美の話かゴーギャンの話しかせぇへんかったわ……一緒に藝大受けるつもりやったのに……絵も巧かったのに……」

とオフクロは急に話を振られて慌てたのか、少しシドロモドロ気味に応えていた。


「私の話はもうええわ」

と仁美さんは笑った。それを見てオフクロもほっとした様な表情を見せて笑った。


「『月と6ペンス』はあいつの愛読書やったもんなぁ……俺も読まされたけど……」

安藤さんが懐かしい想い出に浸る様に呟いた。


「一平、覚えとるか?」


「ああ、覚えとぉ。俺も読んだもん。あの主人公……ストリックランドやったけ? ゴーギャンを模した主人公……ストイックな主人公やったなぁ……俺もあの小説好きやったわ」


「あいつはなんでも一生懸命やらな気が済まん奴やったけど、特に絵だけは真剣やったもんなぁ。全人生を賭けてとったし。だからかなんか、『あの主人公の気持ちが良く分かる』って言うとったなぁ」

安藤さんはオヤジにそう語った。


「そうやなぁ……俺はあいつの描く水彩画が好きやったな。特に人物画は独特な透明感が好きやった」

オヤジがそう言うとオフクロが

「克哉って油絵専攻やったのに、いつの間に水彩なんかやっていたん?」

と驚いたような表情で聞いた。

オフクロも初めて聞く話だったようだ。


「受験勉強で疲れた時に水彩画を描いていたらハマったって言っとったで」


「あいつ毎日デッサンを四時間も五時間も描いとったのに、まだ水彩画も描いてたんや?」

 安藤さんは呆れたように呟いた。

でもその気持ちは僕には良く分かった。いくら描いても描き足りない。もっと描いていたい。

受験のための絵ではない。本当に書きたい絵を。


 僕のピアノも同じだ。いくらでも弾いていられる。

多分オヤジならもっと彼の気持ちを分かっていたんだろうと思う。オヤジがピアノを弾いている横で水彩画を描いているその姿がなんとなく浮かんだ。



 しかしこの世代のオジサマやオバサマはなんでも読んでいるのですか?

そんなにすらっと昔読んだ小説が出てくるもんですか? 僕は話の内容とは違うところで感動していた。


 勿論僕はサマセット・モームの『月と6ペンス』なんか読んだことはない。しかし今この時点で読もうと猛烈に興味が湧いた。


 さっきのオヤジと安藤さんの会話で出てきたヴェルレーヌにしてもフランスのデカダンスの詩人だ。僕はそれを太宰治絡みで知っていたが、ただ知っているだけに過ぎなかった。今、あの会話のヴェルレーヌがそのヴェルレーヌである事に気が付いた。


「お前、『月と6ペンス』読んだ事あるかぁ?」

オヤジが僕の顔を覗き込むように聞いてきた……聞かれるような予感がしていた。


「いや、読んでない」


「そうか、一度読んでみるとええぞ。お前も気に入ると思うわ」

と言い終わると何故かオフクロの顔を見てすぐに目を反らした。


オフクロは何も言わなかった。

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