第8話 オヤジ達

 奥の席でオヤジは体を完全に背もたれに預けて、明らかにくつろいだ感じで話をしている。



 愛ちゃんと呼ばれた女性は薄いブルーのワンピースに黄色いカーディガン。どこかの上品なお嬢様風な雰囲気も漂わせている。どこぞのお嬢様とは大違いだ。

 かたや正面に座ったオッサン……僕のオヤジだけど……リーバイスのジーンズにヘインズのTシャツ、その上にアロハシャツ。靴はリーガルのデッキシューズ。あごひげ残してフチなしメガネ。

どう見ても不釣り合いな図だ。


 知らない人が見たら北野町のお嬢様をゆすっているチンピラにしか見えないな。

わが父ながらそう見えて仕方ない。


 僕たちは相変わらず、カウンターに三人並んで座ってお茶を飲んでいた。

カウンター越しに安藤さんと無駄話をしながら……。


 冴子がオヤジを見ながら

「さっき専務って呼ばれてたなあ。一平の叔父さんは会社のお偉いさんだったんですか?……というか会社勤めなんかしていたんですか?」


と独り言か誰かに聞いているのか分からないような声で呟き、最後はカウンターの中の安藤さんに首だけ向き直って聞いた。


「え? 知らんかった? あいつは会社を経営してたで。三十過ぎて……そう地震の年やな。それまで働いていた会社を辞めて、上司と一緒に会社を立ち上げよったわ……うん」


「そうなんですか。その会社は今は辞めたんですか?」


「うん辞めたなあ……。たしか……5年前に」

安藤さんはそれ以上は何も言わなかった。


「そうなんですかぁ」

そう言うと冴子はまた視線を一平に戻した。



「でも綺麗な人ですよねえ」

思わず僕も聞いた。

「愛ちゃんやったんかぁ……。あいつの秘書をやっていた娘(こ)やな。という事は役員だった大迫君の嫁さんやな。全然気が付かんかったわ」


「え~結婚しているんですかぁ?!そうには見えない!!」

と僕は出会って5分で失恋した気分になった。


「子供もおるで、確か……」

安藤さんの一言はダメ押の一言だった。


「え~全然見えない」

と僕たちは驚いた。


「まあ、あれだけ美人やから、君たちがそう思うのも仕方ないか…」

安藤さんはそう言うと愉快そうに笑った。


「オヤジは一体何をしていたんだ……あんな美人がそばに居ながら」

とオフクロが横に居たら叩かれそうな事を言った。


「ほほ~亮平君も言うねえ……でもなぁ、お前さんのお母さんはもっと美人やったぞぉ」

と安藤さんが目を細めながら言った。


「え?そうなんですか?」

僕は素直に驚いた。


「何? あんたそんな事も気が付かんと息子やっていたんか? あんたのお母さんホンマに美人で上品。なんであんたみたいなガサツなガキが生まれたのか分からんわ。だいいち今でも充分美人やんかぁ」

と、ここぞとばかりに僕の隣から冴子(キャサリン)が反撃してきた。


「あほ。母さんは家ではガサツ以外の何物でもないぞぉ」


「そんなもん私は見ていないから知らん」

と冴子はひとことで僕の反論を切って捨てた。


「あ~そんなん言うかぁ」

やっぱり口では冴子には勝てない……。



「そうそう、亮平のお母さんは高校時代から人気があったな。学校のマドンナだったからなあ……だから一平と付き合った時にショックで寝込んだ奴がいたぞぉ。俺もユノが一平と付き合うとは思ってもいなかったし、結婚までしてしまったからなあ……なんちゅう事するんやって思ったわ」

安藤さんは懐かしそうに笑った。


「僕のオヤジはどうやって母さんを口説いたんですかねえ……」

僕は素朴な疑問を口にした。


「う~ん。いや、一平は口説いてないなぁ……ユノの方が先に口説いたんじゃなかったかなぁ……」

と安藤さんは意外な事を言った。


「え! そうなんですか!」

勿論僕は驚いた。なんとなくだがオヤジがオフクロを口説いたんだろうと思っていた。それを今ここで覆された。


「口説いたと言うかどちらもお互いに好きだったんやけど、ユノの方が先にそれを言ったという感じかな」

安藤さんは昔を思い出しながら話をしているようだった。


「案外オヤジってモテていたんだ……」


「いや、それはない!」

安藤さんは間髪入れずに切り捨てた。


「中学・高校時代の俺の記憶に一平がモテたという記憶は全くない。あいつは変人やったからそんな対象にならん。それを踏み越えて禁断の未開の大地へ飛び込んだのが亮平のオカンやな」


「ま、一平は玄人好みの変人やからな」

そういうと安藤さんはグラスに入ったアイス珈琲を飲んだ。


「オフクロは玄人かぁ……」

なんとなく分かるような気がする。同時に似たもの夫婦だったような気もした。


「そう、あんたは変人と玄人の間に生まれた、筋金入りの変人って事になるわね」

と何故か勝ち誇ったような態度が鼻につく冴子(キャサリン)だった。


「お前はどうなんや。お前も玄人の世界に足を踏み込もうとしてるんやないのか?」

と僕は冴子に毒づいた。


「そんな事、無いわよ」


「ホンマかいな?」


「だからないって言っているでしょ!」

冴子はあくまでも認めようとしない。


 カウンターの奥でタバコに火をつけながら安藤さんが

「ま、キャサリンの場合はオトンが鈴原やからなあ……。家の事を顧みる事も無いオヤジ……と言うかそういう立場の人間やからなあ……。ある意味一平がキャサリンのオヤジ替わりやったんや」

と教えてくれた。


「一平がユノと別れた後、居候したのが鈴原の家や。まだその当時は一平もサラリーマンやったからな。大手企業の社員とはいえ離婚したばっかりで、なおかつ貯金からマンションから何から何までユノに渡したもんやから一銭の金もない状態やった」


初めて聞くオヤジの離婚当時の話だった。


「まあ、鈴原の家は大邸宅やからな。10人や20人増えたところでどうってことないわ。鈴原も鈴原のオトンも一平の事は気に入っていたから、鈴原家からしても大歓迎やったんやろうと思うわ。

 前にも言うたけど、あの一平は子供が出来てから親バカになり下がりよったからな。亮平の分までキャサリンを可愛がっていたんとちゃうか? だからキャサリンが一平の事を慕うのは、当たり前や。ある意味、親代わりやったからな」


冴子(キャサリン)は黙って安藤さんの話を聞いていた。


 安藤さんはタバコの煙を天井に向けて吐くと

「鈴原はその当時仕事が忙しかった……今も忙しいけど……あの当時、スズハラの次期総帥という立場やったからな。とりあえずああ見えても財閥の総裁や。やらなあかん事も沢山あったわ。バブルの時は社会全体が儲かっていたからな。そしてバブルが弾けたら弾けたで、まともに休みなんか取られへんかったやろうな……というか鈴原は休めても休まんかった」


冴子は軽く頷くとおもむろに語り出した。


「覚えてるわ。参観日も運動会も父親は来た事が無かった。いつも仕事やった。今ならそれも理解できるけど、その当時はお父さんを憎んだ事さえあったわ。なんで来てくれへんのやと。一度くらいは来て欲しかった」

 冴子はここで話を切ると呼吸を整えるように息を吸い込んだ。

そして話を続けた。


「でも、唯一いつも来てくれる人が居た。いつも私を抱きしめてくれていた。それが、亮平! あんたのお父さんよ。運動会のビデオも撮ってくれた。音楽会も……小学校の時は父親ではなく、来てくれたんは一平の叔父さんやった。私の思い出はほとんど一平の叔父さんが撮ってくれた」


 そして冴子は僕の瞳をじっと見て

「でもそのビデオに映っていたのは私だけではない」

とはっきりと言った。



それを聞いた瞬間、僕は全てを理解した。身体がぞわっとした。




 そうだ、僕と冴子と宏美は幼稚園から一緒だ。


そこに冴子がいたなら僕も居る。


 冴子の横に僕が居る。そしてその前にカメラを持ったオヤジがいた……。

僕がそれに気がつかなかっただけだ。


僕はオヤジと何度も会っていた……。

オヤジはちゃんと僕を見ていてくれていたんや……黙って。


 走馬灯のようにその時の情景が思い浮かぶ。

小学校の運動会、音楽会、確かに冴子も宏美も居た。同級生なんだから当たり前だ。

そこにオヤジも居たんだ……。


 オヤジは十六年間、僕に会いに来なかった訳ではなくちゃんと見てくれていた。

それなのに僕はオヤジの存在に全く気づいていなかった。

オフクロも何も言わなかった……何も教えてくれなかった。


 言いようのない悲しみとおかしみが一気にやってきた。

行き場のない想いってこういう事なのか。突然やってきて暴れまわる。


――僕は見捨てられていた訳ではなかったんだ――


そしてその行き場のない想いは、悔しさになり、自己嫌悪になった。


――なぜ気がつかなかったんだろう……アホすぎる――


 余りにも愚かすぎる。

しかし同時にオヤジが傍にいてくれていたと思うとあったかい気持ちも生まれた。

大きな安心感にも包まれた。オヤジに頭を撫でられたような感覚。


――これどっかで経験したかも――


 オヤジと一緒に過ごした生後数か月間の記憶なんかないはずなのに、何故か懐かしい感覚が蘇ったような気がした。


 安藤さんがアイス珈琲を飲み干すと

「そうやったな。お前らはいつも一緒にいたな。そう言えば鈴原も仕事と言って理由をつけては、一平に娘のイベントを押し付けていたわ。その間ここでよくビールを俺と飲んでいたわ。

『お前も行ったらええやん』というと『ええんや、俺の折角の休日を邪魔すんな。冴子も一平が行った方が喜ぶからな……それに俺は娘にいつでも会える……』ってな」


「ホンマこの親子分かり易いわ……。ま、一平もやけどな」

そういうと安藤さんはまた煙草に火をつけて、煙を天井に向けてふぅと吐いた。



 何故、オヤジが僕に話しかけてくれなかったのかは分からない。別れた夫婦間の事なんか高校生の僕に分かるはずもない。


 でもオヤジ連中は僕の知らないところで見守ってくれていた事に今気づいた。

冴子の父さんがその場に居ないから、僕はオヤジの事を気づかずにいた。

そうやって冴子の父さんはオヤジの事を……僕の事を気遣ってくれていたんだ。


「気ぃ使わしとんのぉ……」

そういえばオヤジもそんな事を言っていたな。


なんなんだ、このオヤジ連中は……。


そして冴子もそんな父親と僕のオヤジの関係を見ていたんだ。


「やっぱり……冴子(キャサリン)は……やな奴だ……」僕は心の中で呟いた。




「安藤さん……なんで……父さんは……」

言葉が続かないというかこういう時に言うべき言葉が浮かばない。そういう時は顔の表情も引きつるような感じになる。今の僕は情けない顔をしているんだろうな。


「まあ、色々と事情があったんやろうな。その内に亮平も分かる時が来るやろう。もういつでも父親に会えるんやからな」


「……はい」

僕はそう応えるしかなかった。本当に言葉が出ない。


「一平は言うとったで。『亮平と冴子はいつも一緒だと、そして宏美も。だからこの三人は全員俺の子供みたいなもんや。みな可愛い』って」


安藤さんの言葉がいつになく、とても優しい。



 黙って今までの話を聞いていた宏美が僕の顔を見て「どうしたん?」と聞いてきた。


「うんにゃ。何でもない。この三人では俺が一番お兄ちゃんになるんやなって」

「あ、そうかぁ亮ちゃんが一番早く生まれたのかぁ」

この場の空気を読まない宏美の言葉に僕は救われたような気がした。


「そうよ。一番私をダシに使ったあほ兄貴だわ」

と冴子が言った。


「え?」

宏美が聞き返したが

「なんでもないわ。あほ亮平が全部悪いのよ」

冴子は僕の顔を見ないで宏美に応えた。


オヤジは向こうで愛ちゃんと馬鹿笑い。


安藤さんは笑いながら頷いた。


そして僕は宏美と冴子に言った。


「昼飯でも行こうか?なんか腹減ったな。今日はお兄ちゃんが奢るわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る