第395話午後の演奏

 そんな先輩との懐かしい空気をこのままいつまでも浸っていたかったがそうもいかず、僕は後ろ髪を引かれる思いでパート練習に戻った。しかし午後からは更に懐かしい空気を味わう事が出来るはず。それまでの辛抱だった。


 パート練習が終わった後、待ちに待った全体練習が始まった。

朝に配られたおそろいのTシャツを着た部員たちに交じて、同じようにTシャツを着た先輩たちが座っていた。それもコンミス席に瑞穂ではなく彩音さんが座っていた。その隣に瑞穂が座って、彩音さんと何か話し込んでいた。

いつも見ていた懐かしい風景。まるで時間が戻ったような感覚に陥ってしまった。


 ヴィオラの席には千龍さんが座り、コンバスの位置には拓哉の代わりに石橋さんが昔のようにコンバスに身体を軽くあずけるようにもたれ掛かって立っていた。ここに一緒に立てない拓哉は悔しいだろうなと少し同情した。ちょっと拓哉に悪い事をした気分になった。


「今日はOBの方も参加されるみたいなので皆さんにご紹介しましょう」

指揮台の上からダニーが部員に声を掛けた。

石橋さん以外の二人も立ち上がった。先輩たちのTシャツ姿も何故か嬉しい。


 部員全員が歓迎の意を表すように全員で床を『ドンドン』と踏み鳴らし、譜面台を弓で軽く叩いた。

皆が楽しそうに笑って床を踏み鳴らしていた。


「おお、良いですね」

とダニーは表情を明るくして満足そうに何度も頷いていた。


 一緒に演奏をした事のある二年・三年生は勿論だが、先輩たちを知らない一年生も何故か興奮しているように見えた。


 僕は振り向いて

「悠一なんでお前らも盛り上がってんの?」

と聞くと

「小此木さんって有名ですよ。去年のコンクールでも全国二位だった人でしょ? あのうちの姉貴でさえ崇拝してますから」

と当たり前のように悠一は答えた。


「あ、なるほどね」

確かに悠一なら先輩たちの話は冴子から聞いているだろうし、この器楽部を立ち上げた先輩たちだから、面識のない一年生にとってもある意味憧れの先輩なのかもしれない。


 部員たちの歓迎のセレモニーが終わると

「それでは今日の全体演奏はまず最初に『カノン』から演奏しましょう。一年生も準備して」

と美奈子ちゃんが今年入部したばかりの一年生にも声を掛けた。


 この曲は我が部の始まりの曲と言われている。

なのでこの曲はなるべく新入部員も参加できるようにと、同じパートでも先輩たちとは違う弾きやすくアレンジされた楽譜が配られている。

つまりこのカノンは経験の浅い新入部員も全体演奏に参加できる最初の曲でもあった。

もちろん彩音さんたち先輩にとってもなじみの深い曲であることは言うまでもない。


 三年生になってからもこの曲は何度も全体で弾いているが、今日のカノンは懐かしい音色で始まった。

久しぶりに聞く先輩たちの音色。初めてこの人たちと演奏した時のことを思い出しながら僕は弓を引いていた。


――最初はピアノで参加したんやったなぁ――


 そんな思い出に浸りながらふと目をやると、彩音さんの横で何故か緊張して弾いている瑞穂がいた。

彼女なら誰が見ても分かるぐらい喜びを爆発させて弾いているもんだと思っていたのだが、全く違った。喜びが度を過ぎて緊張に変わったようだ。


 それに比べて冴子はいつもの冴子に見えたが、やはり表情が硬い。

やはり久しぶりに憧れの人と演奏すると緊張するんだろうなと思っていたが、そうではないことにすぐに気が付いた。


  

 彩音さんのヴァイオリンの音はさらに進化していた。まず音の厚みが違う。厚く強い音。それでいて引き締まって濃縮された圧倒的な音の粒である。この数か月で彩音さんのヴァイオリンはとてつもなく進化していた。他の部員と同じ楽器を使っているとは思えない音の違いを感じた。


 彩音さんの音色は僕たちと一緒に演奏ていたころよりも、その音色に一本の芯が通ったような強さを感じた。それは細い筋が幾重にも連なってできた芯だった。


――藝大に行くとそうなるのか?――


 彼女たちは緊張していたのではなく、焦っていたのだ。

彩音さんについて行くのが精一杯。

全然成長していないと思われたくない。だから冴子も瑞穂も必死になっていた。


――流石は彩音さんだ――


と二人に比べて僕はそんな焦りは全くないので、後ろのプルトで二人の焦りを生暖かいまなざしで見守っていた。


 それには宏美も気が付いたようで、僕の方を見て笑っていた。

実は合宿が始まった時、ふと『先輩たちと来たかったなぁ』となんとなく思っていたのだが、まさか合宿二日目でそれが実現するとは思わなかった。


今年入ったばかりの一年生と先輩たちが一緒に演奏している風景は、不思議ではあるがとてもいい風景だ。


 結局先輩たちとは最後まで練習に付き合ってもらった。その上全体練習が終わった後は『最初の六人』の演奏が聴きたいという一年生たちのリクエストもあって、久しぶりに先輩たちとカノンを演奏する事が出来た。


 ああ、これがこの部の原点の音だ。また懐かしい気持ちでいっぱいになった。

何よりもこの面子でピアノを弾けるのが嬉しい。僕はやっぱりピアノを弾いている時が一番しっくりくるという事も実感した。


 この合宿二日目は予想以上に楽しい時間だった。

そして合宿はまだ明日も続く。明日からは先輩たちはもう居ないがまた演奏できる日も来るだろう。

拓哉は吹奏楽部に取られたので、昔懐かし豚さんチームで遊んでいようと僕は決めていた。

コントラバスには中村夕子も居るし……。


 しかしそれはダニーの思惑により実現する事は無く、僕は一人……ダニーの前でピアノに向かう事になった。


 そう、僕はピアニストを目指す清く正しい高校生だったのだ。

ヴァイオリンを楽しく弾いている場合では無かったのである。それをダニーに再認識させられた。

しかし合宿中はもう少しヴァイオリンで遊びたかったというのも本音だ。


ただ今回の合宿は僕にとって楽しい思い出となった。そう、音楽は楽しまなくてはならないのだ。


――吹奏楽部に出稼ぎに行った拓哉よ。せっかくなんだから楽しめよ――


と僕はピアノに向かいながら、心の中で冴子に吹奏楽部に売られた拓哉にエールを送っておいた。

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