第386話全体演奏

 昼食後、吹奏楽部はそのまま講堂に残り、器楽部は大セミナー室に集められた。

器楽部員を前に美奈子ちゃんは

「今回の合宿では主要な管楽器のメンバーが吹奏楽部に駆り出されている事もあり、全体演奏よりもパートごとの練習が主になります。各個人の技術に合わせて個別に指導してもらう事になるので、一年生もこの機会に技術を磨いて下さい。二年生、三年生は各々組んでいるユニットとの練習もやってもらって結構ですが、弦楽だけでの全体演奏がメインになります。気を抜かないように。そしてこの合宿での一番の目的は皆さんに技術的な成長を目指してもらうことにあります」

と今回の合宿の目的を説明した。


 いつもすぐに冴子に後を任せる美奈子ちゃんだが、今日は話はまだ続いた。

「そうは言ってもこの四日間で一気に技術が飛躍的に伸びることはないでしょう。でも、この合宿で『どういう風な練習をすれば良いのか?』とか『演奏に対する姿勢と考え方』などこれからの演奏に関わる大事なことは学べると思います。そういうことも是非プロの方から教わってください。それと管楽器の一年生は吹奏楽部の方で練習してもらう予定でしたが、全員が『弦楽器の練習がしたい』と希望したので今回は弦楽器のパートをやってもらいます」

と美奈子ちゃんにしては珍しく顧問らしい話をしていた。


 それにしても流石ユルイ部活だ。楽器への拘りというか決めつけがない。

『やりたい楽器を演奏する』

そういえばこれがこの部活の唯一の決まりかもしれない。

和樹が言っていたが器楽部のノリは軽音楽部と変わらんらしい。確かに全て個人の自由に任せられている。


「後は今回からヴァイオリンの編成を少し変えます。セカンドの鈴原悠一、中務優宏、秋島かがり以上三名は既に『弦楽のためのアダージョ』ではファーストをしてもらっていましたが、この合宿からオーケストラ編成時は正式にファーストへコンバートします」


「ほぉ」と皆が一瞬どよめいた。

前々から決まっていたことで部員全員が判っていた事だけど、こうやって発表されるとそれなりにインパクトがあるものだ。


 例のマリアさんトリオがコンバートされると全体演奏ではヴァイオリンの厚みとバランスが安定するので、部活的には『やっとオーケストラ編成でもまともな演奏ができる』というところだろう。


 僕はその時

――また小百合はプルトでまた悩みそうだな――


と余計な心配をしていた。


 その後、全体でバーバー作曲『弦楽のためのアダージョ』を演奏する事になった。

二年生は管楽器との兼務者も含めて全員この編成に参加する事が出来ていたが、未経験者の一年生はまだこの編成には入る事が出来ずに見ているだけだった。僕が教育担当として教えている時岡優菜と伊藤美優は、準備をしている僕たちを食い入るように見ていた。


『こちら側に早く座りたい』というのが強烈に伝わる熱い視線を感じた。


 ただ、僕たちもこの曲は今年に入ってから練習し始めた曲なので、まだ完全に自分たちのものにしたという自覚はなかった。その上、今回は目の前にはプロのオーケストラの楽団員がいる。否応なしに部員の緊張感は高まっていた。

コンミスの瑞穂が何度も振り返り、肩を上下させて『リラックス』と合図を送っていた。


 指揮台にダニーが上がった。笑顔である。緊張している部員たちを見下ろして楽しげである。

「いつものように演奏すればいいのです。そこに居るプロの楽団員を気にすることはありません。単なる部屋の装飾品だと思ってください」

と言って部員を少しだけ笑わした。


 でも、案外この一言で肩の力が抜けるのが不思議だ。これが世界の巨匠の力なのか? ……いや、どうなんだろう?


でも指揮棒を持った巨匠のひとことは何故か重い。


 緊張感の漂う中、静かに大セミナー室にヴァイオリンの音の波が流れだす。

それはこの大セミナー室の床から染み出すように、またゆったりと哀しみを絞り出すように静かに気が付けば音の絨毯が敷き詰められていたという感じで広がっていった。


 静寂から始まる情感豊かなこの曲は、指揮者の感情もダイレクトに伝わってくる。

奏者がそれを受けすぎると、その感情に引きずられ音のバランスが狂いそうになる。それを抑えながらダニーの指揮に部員が必死になってついていこうとしていた。


 でもこの緊張感はとてもいい緊張感だ。僕は嫌いではない。

ダニーは『特にこの曲は聴衆との共感性が大事です』と前々から言っていた。


この曲はそれだけ繊細で情熱的な曲だという事でもある。


僕はヴァイオリンを演奏しながら、このホールに敷き詰められた音の絨毯を眺めて悦に浸っていた。


――とてもいい景色だ――


オヤジにもこの景色を見せてあげたいなとも思っていた。

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