第138話 リクエスト
僕は宏美と冴子と並んでその様子をピアノの前で、ぼうと眺めていた。
今まで六人で好きなように演奏してきたのに、急に部活らしくなって何をして良いのか直ぐには思い浮かばなかった。
が、ふと我に返って
「キャサリン、お前は教えんでええんか?」
と冴子に声を掛けた。
「うちらはピアノがメインやもん」
冴子はそう言って同意を求めるように宏美の顔を見た。宏美はそれを受けて軽く頷いた。
「じゃあ、そのお前の横にあるケースはなんなんや?」
と僕は冴子と宏美の傍らにひっそりと置いてあったヴァイオリンケースを顎で指さした。
「これは万が一の時の為に持って来ただけや」
それは明らかにその場しのぎの言い訳だ。
「嘘つけぇ。弾く気満々やんかぁ」
「そんな事無いわ」
「そうかぁ? ホンマは教えるのが面倒くさいだけなんとちゃうの?」
「ちゃ、ちゃうわ」
と冴子は否定したが、間違いなくそうだろうと僕は確信した。
何はともあれ、これ以上の不毛な会話を続ける気力は湧かず、冴子の言い訳にこれ以上ツッコむことは止めた。
そもそも同じチームにピアノが三人もいること自体がおかしいだろうが……。
「それにしても未経験者より経験者が多いって凄いね」
と宏美が感心したように呟いた。彼女は僕と冴子のどうでもいい会話には全く興味がなく、瑞穂や先輩たちが教えている姿に目を奪われていた。
「なに真剣に見てんの?」
冴子が宏美に聞いた。
「うん。昔はああやって教わっていたんやなぁって思い出していたん」
宏美は懐かしそうにそう言った。宏美の気持ちは僕にも分かった。
冴子も黙って先輩たちが教えているのを見ていた。
僕達の姿を見ていた先生が
「あんた達、ヒマそうね。三人で何か弾いて頂戴」
と唐突に声を掛けてきた。
「え? 今ですか?」
冴子が怪訝な顔をして聞き返した。
「そうよ」
事も無げに言う先生。
「何を?」
「なんでも」
僕たち三人は頭を突き合わせて考えた。
取りあえずピアノとヴァイオリン二台で演奏するのは決まったが、即興でできる曲がすぐには思い浮かばなかった。
宏美が突然思い出したように
「あれあるやん。中二のクリスマスにバイオリン教室で三人でやった曲」
と僕を小突いて言った。
「中二のクリスマス?……ああ、あれか」
僕は記憶の糸をたぐり中二のクリスマスの出来事を思い出した。
「そう、あれ。亮ちゃんがピアノ弾いて私たちがヴァイオリンを弾いたあれ」
「ああ、あれね。あれならまだ覚えているわ。ええんとちゃう」
冴子にしては珍しく素直に賛成したが、この曲って冴子がソロで弾いた曲だったと思い出した瞬間に合点がいった。
――そりゃ反対せんわな――
軽くチューニングを終えると僕達はバッハの『G線上のアリア』を弾き始めた。
この曲はヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲した『管弦楽組曲第三番ニ長調』の第二曲「アリア(エール)」をアウグスト・ウィルヘルミがピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏のために編曲したものの通称である。
その為ニ長調からハ長調に移調されているが、ヴァイオリンの四本ある弦のうちG線のみで演奏できることからそう呼ばれている。
僕はヴァイオリンを習っている頃に一~二度この曲の伴奏でピアノを弾いた事があった。それはヴァイオリン一本とピアノというのであったが、その時は冴子のソロにピアノの僕とヴァイオリンの宏美が伴奏だった。
中二のクリスマスに初めてこの曲を発表会で宏美と冴子の三人で弾いたのだが、本当に楽しい演奏だった。
いつも孤独なソリストだったが、こういうアンサンブルは新鮮だった。
その時の僕は自分が緊張しながらもチェロを演奏するような気持でピアノを弾いていた事を、今演奏しながら思い出していた。
ワンコーラスが終わると川上真奈美が指で優しくチェロを弾(はじ)き出して加わった。音の粒が少し数を増した。同じようにコンバスの篠崎拓哉がスッと入ってきた。それを確認すると真奈美は弓でチェロを奏で始めた。音の厚みが一気に増した。この二年生同士の低音部は絶妙の呼吸で音を合わせている。
それに続いて井田忍がヴァイオラで参加した。にわかヴィオラと思っていたが、ちゃんとついてこれている。音は少し軽めだが、普通に上手い。いつの間に練習していたんだ? 宏美との呼吸も見事に合っている。これで内声部の音に艶が出てきた。
この三人の参加を見て我慢しきれずに瑞穂がヴァイオリンを構えて立ち上がった。ここまで来たらと残った清水琴葉もヴァイオリンを肩に乗せた。
みんな幼い頃から弾いているだけあってそれなりに経験を積んでいる。絶妙なタイミングで自然に音の輪の中に入ってくる。
気が付いたら二年生全員がこの『G線上のアリア』の演奏に加わていた。もう完全に新人への訓練を忘れている。
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