第139話 先輩達の演奏会
冴子の奏でる美しい旋律に寄り添うように流れるヴァイオリン達とヴィオラの音色。それらを際立たせて適度の緊張感を与えるように刻むチェロとコントラバス。
荘厳な教会の大聖堂の中にいるような錯覚さえ覚える。
音楽室に静かに弦楽器の調べが流れる。その音の波は厳かに音楽室の壁に吸い込まれ、あるいは窓から校庭に微かな春の残り香のようなさ儚い粒を運んで行った。
今ここで奏でられている『G線上のアリア』は、まさに管弦楽組曲第三番ニ長調 第二曲『Air』だった。
僕は弦楽器の調べを崩さないようにピアノの音をペダルを踏んで抑えながら弾いた。ソリストの僕はどこに行ったんだろう? と自分でも感心するぐらい冷静に音を聞き分けている。このピアノもここは大人しくストリングスの音色に耳を傾けたいようだ。
さっきまで初めて触る楽器に悪戦苦闘していた一年生とそれを指導していた三年生は、手を止めて僕たちの演奏を聞いていた。
先生はピアノに軽く体を預けるようにして目を閉じて聞き入っていた。
とっても心地よい時間だ。独りでピアノに向かっている時とは違う感覚だ。他人の奏でる音に身を任せながら、それでいて自分もその中の一人であると感覚がとても僕は気に入っている。
自分が音楽の一部になったとさえ思える。
ヴァイオリンを弾いている四人は何の打ち合わせも音合わせもしていないのにもかかわらず、あたかもいつもこのメンバーでアンサンブルで奏でているようにパートを分け合っていた。安心して聞いていられる。
それにしても冴子は物怖じすることなく堂々と弾ききっている。一本調子にもならずにちゃんと余裕をもって弾いていた。そして瑞穂は隙あらば冴子を食いかねない音を出していた。この緊張感は一体なんだ? それをものともせずに弾いている冴子を見て、僕はちょっとだけ感動した。
――冴子はピアノで受験するって言ってなかったけ? ヴァイオリンの方が上手いんじゃないか?――
ヴァイオリンを弾く彼女たちからは、今まで本当にまじめにコツコツと幼い時から弾いていたというのが伝わってくる。一音一音を大事に奏でている。
ヴィオラに転向した井田忍もちょっと軽いがしっかりとした音を出していた。
このメンバーでこれから更に真面目に練習したらどんな音になるのだろう? と興味が湧いた。その景色を見てみたくなった。これからの部活を期待させる演奏だった。
そして夢のような六分間は終わった。
ほぉというため息が漏れる
「へぇ。二年生たち凄いわねえ……」
先生は呆れ返ったような感心したような何とも言えない歓声を上げた。
一年生は我に返ったように拍手をしてくれた。
「先輩凄いです!」
「本当に……BGM程度の音を鳴らしてくれたら良かったのに……誰が真剣に弾けと言った?」
そう言いながら先生は笑っていた。
「でも良いモノを聞けたわ」
先生はそう言うと感動冷めやらぬ一年生に向かって
「一年生の皆さん。どうでしたか?今の先輩の演奏を聞いて?」
と感想を求めた。
それに応えたのは一年生唯一の経験者東雲小百合だった。
「本当に感動しました。これって初めての合奏ですよね? 凄いです」
本当に彼女は僕達の演奏に感動を受けたようだった。
「先生、僕達も練習したら、あんな風に弾けるようになるんですか?」
同じく一年生の未経験者金子颯太が聞いた。
「そうね。ちゃんと練習をしたらなれるでしょう。でも高校時代にあそこまで行くのは厳しいかもしれません」
先生は金子の目を見て真剣な顔で更に言葉を続けた。
「高校時代にどれだけちゃんと練習ができたか、これからの部活で皆さんの努力の結果が重要です。最低でも高校を卒業しても弦楽器が楽しく弾けるぐらいの力をつける事は出来るでしょう。この先輩方が居る限りそれは大丈夫です」
と最後は僕達に責任を擦り付けるように僕達上級生の顔を見た。
「そうだ!折角なので、今日は先輩たちの演奏を皆さんに聞いてもらいましょう」
その先生の一言で、一年生の練習を見るのではなく、一年生が先輩の演奏を聞く日となった。
そしてあの瑞穂と哲也と僕の三人で演奏したBEATLESのEleanor Rigbyは僕たち三人から器楽部全員で弾く課題曲に変わった。三年生と他の二年生が加わると本当に音が厚く、そして本当に体が音楽に包まれているような気がする。音の粒の中に自分が存在しているような浮いているような不思議な気持ちになる。
――もっと本格的に室内管弦楽をやってみたいな――
僕はふとそんな事を考えていた。
一年生たちは好き勝手に演奏している先輩たちを目を輝かせながら食い入るように見ていた。
彼、彼女たちのほとんどが、こんなに間近で弦楽器の演奏を見るのは初めての経験だろう。
CDやレコードで聞く音と生で聞く音は全く違う。ライブの臨場感と迫力は実際に経験してみないと分からない。そして演奏者になった者たちは音が生ものである事を知る。
彼らが「いつかは自分たちも」とうずうずしながら僕たちの演奏を聴いている姿を見ながら、僕は自分が初めてピアノ教室で伊能先生の弾くピアノの音色に圧倒されたことを思い出していた。
――あんな風にピアノが弾きたい――
それは『あんな風に弾けたらいいのになぁ』から『弾きたい』に変わった瞬間だった。
先生はその時
「なりたいと思い続けていればなれるわ」
と言ってくれた。
今日ここにいる一年生はどう思ってくれただろうか?
彼らに僕は何か与えることができただろうか?
なんとなくそんなことを考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます