第32話 ラヴェルが泣いている
「今度はラヴェルを弾いてくれる? 課題曲と同じでいいから」
と先生はソナチネ第三楽章を指示した。
これもコンクールが終わってからは一度も弾いていない。
やはり『One Minute Waltz』では許してもらえなかったようだった。
「楽譜は大丈夫?」
と先生は聞いてきた。
「ええ、まだ覚えてます」
楽譜がなくても弾けるぐらい覚えている自信はあった。
昔から暗譜だけは自信があった。
指を鍵盤の上に乗せた。軽く頭の中で演奏してみた。
――これなら弾ける。指もまだ動く。多少ぎこちないのは仕方ないが、まあ、演奏会でもないし――
そう思いながらもさっき感じた不安感を期し去るように僕は首を振った。
余計な事を考える事を止めて僕は鍵盤に指を沈めた。
事実、この難しい曲を僕は『まだ案外弾けるもんだな』と思いながら弾いていた。一年振りに弾いてこれぐらいならなかなかのもんだろう。
先走りも抑えているし……とか考えながらも僕はラヴェルを弾き終わった。
しかしさっきのモーツアルトと同じで、義務的に僕は指を動かしただけだった。
先生はまだ黙って目を閉じている。
その表情を見てまた僕は不安になって
「一年振りならこんなもんです」
と言い訳がましく弁解した。
「そうね」
と先生はポツリと言った。
そして見開くと
「でもラヴェルが泣いている」
と付け足した。
「え?」
「ラヴェルも一年経ったらこんな風に弾かれるとは思ってもいなかったでしょうね」
「君のピアノを聞いた時に私は思ったのよ。『ああ、この子は作曲者の言葉を聞いている』と。『ラヴェルと会話をしながら弾いている』と。このコンクールに弾いた曲も、多分にコンクール向けに抑えてはいるけど、ラヴェルの声が聞こえてるわ。音の粒が綺麗にはじけていたと……。でも今のはダメ。全く聞こえない。楽譜をそのまま弾いているだけ……。そうじゃないでしょ? 私は君にコンクールに出なさいと言っているのではないのよ。本当に人を感動させる音を奏でられる人になれると言っているのよ。君はそれを実現できる力があるのよ。判る?」
はっきり言って先生が何を言っているのか判らなかった。
僕はラヴェルを泣かしたつもりもないし、ましてやラヴェルと会話なんかした事など一度もない。僕はイタコではないし霊能力者でもない……いや、お嬢と出会ってからは少しその可能性も無きにしもあらずだが……。
少なくともイタコピアニストになる予定は全くない。
僕は今まで弾きたいように弾いていただけだった。
強いて言えば楽譜が弾いて欲しそうな音を選んで弾いていたとも言えないことはない。
ただコンクールは別だった。そこには明らかに作者の意思を表現する必要があった。勝手な解釈だけでは弾く事を許されなかった。それを『作曲者との会話』と言うのであればそうなんだろう。
先生は僕のその気持ちが分かったのかそれ以上何も言わなかった。
そしてしばらく考えてから
「一度ゆっくり考えてみて。君にとってピアノは君が思っているよりも大きな存在のはずなんだから」
と言った。
「はぁ」
僕はそう答えると立ち上がって、机の上に置いたカバンを取って音楽室の扉に向かった。
その前で僕は一度立ち止まり
「先生、僕はピアノを弾くのを嫌いになった訳ではないです。今日もグランドピアノ弾けて気持ちよかったです。でも先生のいう『作曲家と会話ができる』の意味がよく分かりません。家に帰ってからちゃんと考えます」
と先生に正直に自分の気持ちを伝えた。
僕が今言えることはこれだけだった。
先生は黙って頷いていた。
僕は音楽室の扉をそっと閉めて廊下に出た。
校門まで来ると吹奏楽部のトロンボーンの音に混じってラヴェルが聞こえた。
どうやら先生が弾いているようだ。
耳を澄ますとラヴェルが泣いているような気がしたがそれは間違いなく錯覚だ。
ラヴェルは僕達ごときで泣いたりはしないはずだ。しかし笑っても居なかった。
校門を出ると僕は坂を下って歩いていた。
歩きながら宏美にメールを送る事にした。
「今終わった。今学校を出たところ」
暫くして返事が返ってきた、
「先生はなんだって?」
僕はすぐに返事を書いて送った。
「ピアノを弾けだって」
「ピアノを? なんで?」
「さあ? 伊能先生からコンクールの時に演奏したCDを聞かされたみたい」
「伊能先生と知り合いやったんや@@ 亮ちゃんにピアニストになれって?」
「それは言われていない。でも、もっと上を目指せみたいな事は言われた」
「ピアノ弾くの?」
「たまに家で弾いている」
「ピアニスト目指したらいいやん。亮ちゃんピアノ上手なんだから」
「あんまり興味ないな」
「だよねえ。興味なさそう^^」
「うん。帰ったら連絡するわ」
「は~い」
宏美とメールをやり取りしているうちに、少し気持ちが落ち着いてきたような気がしてきた。
ただ、何故か『あの程度しか弾けなかった』と言う後悔にも似た感情が、湧き上がってくるのを抑えきれないでいた。
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