第31話 音楽室

 僕は冴子のあの意味深な笑いが少し気になりつつも、呼び出された意味も状況もよく分からないまま音楽室に向かった。 


 長沼先生は既にピアノ椅子に座って待っていた。僕が音楽室の扉を開くと

「わざわざごめんね」

と言って立ち上がった。


「どうしたんですか?」

僕はまだ呼ばれた理由が分からずに、とても気持ちが悪かった。


「藤崎君ってピアノ弾いていたよね」

と先生は唐突に聞いてきた。


「はい。三歳から習っていました」


――そんな話を先生にした覚えはないが――

と僕は何故そんな話を先生が持ち出したのか、その意図を探りたかった。


「これ聞いたんだけど……」

先生は一枚のCDを僕の前に差し出した。

そのCDは表面が真白でその上にマジックペンで「演奏・藤崎亮平」と書いてあった。

それは僕が中学三年生の時に出場したピアノコンクールで弾いた時のものだった。


「なんで先生がこれを?」


「藤崎君、君は伊能成子先生を知ってるよね」

と先生は聞いてきた。


「はい。僕が子供の頃から習っていたピアノの先生です」

懐かしい顔が浮かんだ。高校に入ってから教室に通うのを止めたので、今は会う事はなかった。


「その先生にこのCDを聞かせて貰ったのよ。藤崎君がこれを弾いたって」


「はぁ、そうなんですか」


――なんで他人にそれも学校の音楽の先生に聴かせるかな。あのオバハン――


……僕は少し憤った。


「なんで先生がそれを?」

と僕が聞くと先生は僕の顔をじっと見てから

「伊能先生は私のピアノの先生でもあるのよ」

と何故か自慢げに言った。


「え、そうなんですかぁ……それで……」

僕は少し驚いた。こんなところで同じピアノ教室に通っていた先輩に会うとは思わなかった。僕がピアノを弾いていたことは伊能先生から聞いたのだろう。

少し合点がいって、心のわだかまりが少しだけ軽くなった。


「そうよ。で、藤崎君、なんでピアノ辞めたの?」


「辞めた訳じゃないです。昔みたいに弾くのを止めただけです。だからたまには家で弾いてます」

 今は気が向いた時しか弾かないが、ピアノ教室に通っていた時は毎日何時間かはピアノの前に座っていた。


「このコンクールで君は1位を取ったんでしょ?」


「はい。一応」

と僕は頷いた。


「なんでもっと上を目指さないの?」

先生は矢継ぎ早に聞いてくるが、僕も負けずに間髪を入れずに答えた。

「上に興味が無いからです。そのコンクールも腕試しに出たら? と言われて出ただけですから」

そう、このコンクールに限らず今まで参加したコンクールは、冴子や宏美が出るので仕方なく僕も付き合って参加した程度のものだった。


「興味がない?」

先生は怪訝な顔で聞き返した。


「はい。取り敢えずピアノがそこそこ弾けたらそれで良かったので……。高校生になったし、ちょうど良いかなと思って……これからは趣味で弾こうかなと」


「それで習うの辞めたと?」

先生は少し驚いたような顔をして聞いてきた。


「はい」


「ピアノ楽しくなかったの?」


「いえ、楽しかったですよ。だから今でも弾いてますし」


「これ以上、上手くなりたいとは思わないの?」


「はい。別にピアニストになる気もありませんし」

僕は迷わずに答えた。


「なりたいと思ったことは?」


「一度もないです」

と僕は首を振った。


「一度も?」


「はい」


「ホンマに?」


「はい。ホンマに」


「う~ん」

長沼先生は僕の返事を聞いて考え込み始めた。   

 僕は先生が色々聞いてくるので少しうんざりし始めていた。

が、同時に先生との会話中に気になる事を思い出していた。


「先生」

と僕は声を掛けた。


「なに?」

 唐突に僕に呼ばれて、先生は不意を突かれたように僕を見た。

というか呼びつけた僕の存在を忘れて、勝手に自分の世界に入るなと言いたい気持ちになった。


「今日の昼間、音楽室でこのCDを聞いてましたぁ?」


「聞いていたわよ。外まで聞こえていた?」


「はぁ。自販機の前で缶コーヒー飲みながら聞こえていたので……まさか自分が弾いたやつだとは思いませんでしたけど……」

 僕は騙された気分で一杯だった。そしてその曲を聞いて自分が弾いていたとは分からなかった自分が少し恥ずかしくて、それより更に少しだけ悔しかった。


――自分が弾いていて判らんかぁ……CDの音だっていう事も判らんかった――


「直ぐに自分が弾いている曲だと判らなかった?」

先生は呆れたような表情で聞いてきた。


「判りませんでした」

そう答えながら僕はやはり少し悔しかった……いや先生の呆れたような表情を目のあたりにすると、結構悔しかったし腹立たしくもあった。


 ――こんな音楽室のいつ買ったか分からんようなステレオのスピーカーから出たCDの音が僕は判らなかったのか――


……そう思うと悔しさを通り越して恥ずかしさがこみ上げてきた。

たかだか20Hzから20000Hzしか音域が聞き分けられなかったと思うと、本当に悔しかった。


「ねえ、藤崎君ちょっと弾いてみてくれる」

先生は僕のそんな心の葛藤を見透かしたのか、視線でピアノを指した。

「バルトークですか?」

悔しさと恥ずかしさでとても不機嫌そうな声と態度で僕は応えた。


「ううん。なんでも良いよ。好きな曲弾いてくれて」

それでも長沼先生は首を振って笑いながらにこやかに言った。


「はぁ」

 僕はピアノの前に座った。

音楽室のピアノはグランドピアノだ。これを弾くと家のアップライトを弾く時より少し気持ち良く弾ける。

ピアノを弾くこと自体はやはり僕は好きだ。飽きる事はないだろう。


 何を弾こうか迷ったが、こんな茶番はさっさと終わらしたかったのでショパンのワルツ第六番「こいぬのワルツ」を弾いてお茶を濁すことにした。

これなら二分弱で終わる。


冒頭のトリルは省きモノローグから左手のワルツのリズムまで一気に引き出し軽やかな音を維持しながら弾いた。


 先生は目を瞑って静かに聞いていた。


久し振りに弾いた割には上手く弾けたように思う。

兎に角、早くこの何とも言えない雰囲気から脱したいという思いだけで、僕はピアノを弾いた。


 弾き終わっても先生は目を閉じたままだった。その表情からは先生が僕のピアノの音を聞いて何を感じたのか全く想像もつかなかった。


ピアノを弾いた後にこんなに不安な気持ちになったのは初めてだった。

ただ単に指を動かしただけのピアノって、こんなにも虚しいものかと初めて知った。




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