第325話音楽室

 ぽっぽちゃんとの思わぬ再会があってから一週間ほど経った昼休み、いつものように僕が音楽室でピアノを弾いていると翔がやってきた。今日は一人だった。


「なんや? また伴奏すんのか?」

と僕が聞くと

「今日はちゃう」

と翔は首を軽く横に振った。


「ふん、そうか……で、和樹とぽっぽちゃんは? 今日は一緒やないんか?」

僕は周りを見回して聞いた。


「ああ、あの二人はおらん」

と翔はまた首を同じように横に振った。

二人が居ない代わりに彼はギターケースを背負っていた。


「そうなんや。で、そのギター……今から弾き語りでも始めんのか?」

と僕は顎で彼のギターを指して聞いた。


「ちゃうわ! そんなんせえへんわ」

と言いながら肩から掛けたビニール製のギターケースを下ろして、中からセミアコスティックギターを取り出した。弾き語りはやらないが、ギターは弾く気満々のようだ。


「うわ! それってマーチンのセミアコやんか?」

ヘッドに書かれたブランドロゴを見て僕は思わず叫んだ。流石は自称ギタリスト。良いギターを持っている。


「え? そうやけど。よう知ってんなぁ」

と翔は少し驚いたように言った。


「ああ。中学の時、和樹と一緒にギター弾いてたしな。それ位は分かるわ」


「ホンマかぁ。 ギターも弾けるんや? ピアノにヴァイオリンにギターかぁ……達者やな……ほなちょっと弾いてみるか?」

と翔は僕にギターを渡そうとした。


「いや、それはええわ。ギターはそれほどでもないねん」

と僕はそれは断った。

 翔にはそう言ったが、実はギターを弾くと案外手に力が入るので、その後ピアノを弾く時に左手にしばらく違和感が残るのを僕は避けたかった。


「へぇ。ギターはそれほどでもないんやぁ……でも指先の痛みには耐えたんやろ?……ってヴァイオリンで指は出来ていたかぁ……」

と翔は感心したように聞いてきた。


「まあね、それはね。でも、そこで辞めたら和樹にバカにされるからな」

と僕は笑いながら応えた。


 ギターを初めて手にした人間が絶対に経験する関門。それは弦を押さえる時の痛みに耐えて指先にマメを作る事。それを超えて初めてまともにギターを弾くことができる。

 僕の場合は元々ヴァイオリンを弾いていたので、多少の違いはあったもののギターでのその関門をそれほど意識することはなかった。



 翔はギターを抱えて

「そうやな。あいつは結構勝ち負けに拘るタイプやからな。でも、それならそこそこ弾けるんとちゃうの?」

と笑いながら頷いた。


「ま、ぼちぼちやな。それより折角なんやからなんか弾いてえや。流しのお兄さん」

と僕は翔にリクエストした。折角のマーチンのギターである。音を聞いてみたくなった。


 ピアノやヴァイオリンに比べれば僕のギターは中途半端で終わった感が否めないが、それでもそれなりに興味があったからギターを弾いた訳で、名器と言われるギターの音を聞いてみたいと思うのは当然の成り行きだった。


「何かって言われてもなぁ……」

そう言いながらも翔はギターを軽く弦を鳴らすと弾き始めた。


 イントロが静かに流れてきた。

『Tears in Heaven』。エリック・クラプトンの名曲だ。


「ほぉ、シブい曲弾くねえ」

と僕が言うと

「マーチンと言えばクラプトンやろ」*1

と何故か翔はどや顔で言った。

そしてそのまま歌い出した。


――やっぱり弾き語りしてるやん――


とツッコみたくなったが、やはり翔は歌が上手い。黙って僕は聞いていた。

翔は本当にギターを大切そうに弾く。本当にギターを弾くのが好きなんだと伝わってくる。

だからかなのか? ヴォーカルに固執せず、あっさりとその席をぽっぽちゃんに譲れたのは……。


 歌うよりもギターを弾く方が居心地が良いのかもしれない。

その気持ちはよく分かる。

自分の思い通りに演奏する時の至福感は、楽器は違えど同じだろう。


――ギターもええ音出してるけど、この声もええよなぁ……ヴォーカル辞めなくてもええのに――


翔の弾く姿を見ながら僕はそんな事を考えていた。



*1

マーチン社初のアーティストモデルはエリック・クラプトンのシグネチャー・モデル。

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