第136話 ヴァイオリンをやめた理由


「はぁ、一応……」

 僕がヴァイオリンをやめたのは、ピアノの方に集中したかったのもあるが……実はヴァイオリンケースを持って歩くのがとてつもなく嫌だったからだ。自分がヴァイオリンを習っているのを同級生や友達に知られたくなかった。


 小学校入学したころ、放課後ヴァイオリン教室に向かう途中で同級生とばったりと出会った事があった。その時に目ざとく持っていたヴァイオリンケースを見つけたクラスメイトに『男のくせにヴァイオリンなんか習っとるんか?』とからかわれ、暫くの間、学校では『イオリン』という全く有り難くないあだ名をつけられていた。


 ちょっと考えれば大したことのない話なのだがそれがトラウマになったのか、僕はヴァイオリンを習っている事を知られるのがとても嫌だった。今でもヴァイオリンを弾いていた事は滅多に言わない。


 そう、ヴァイオリンが嫌いで辞めたのではなく、ヴァイオリンケースをもって歩くのが嫌でやめた。正確に言うとヴァイオリン教室に通う姿を見られたくなくて教室に通うのをやめた。


 これが『男のくせにピアノなんか習ってんのかぁ』とか同じような時期に言われていたら、ピアノもやめたかもしれない。でも幸いにもピアノを担いで歩くわけにもいかず、持っていたのはカバンの中の楽譜だったので、誰にも気づかれる事はなかった……という、ただそれだけの理由で今までピアノを続けてきたとも言える。


 ヴァイオリンは教室を辞めてからも、たまに思い出したように家で弾いている。


「そういえば、他にもピアノが弾ける奴がおったな?」

 千龍さんはそういうとメンバーの顔を見渡した。

 

 チェロの一年島村敦子と第二ヴァイオリンの同じく一年の水岩恵子が手を挙げた。この二人は初めての弦楽器だ。そしておもむろに石橋さんも手を挙げた。音楽室が何故かどよめいた。


「そうやったな。お前も弾いとったな」

千龍さんが笑いながら石橋さんを見た。石橋さんは黙っていたが周りの視線を気にするように目が泳いでいた。


――あのいかつい顔でピアノ??? ギャップ萌えしそうだわ――


 というセリフが口から勢いよく出そうになったが、必死で抑え込んだ。

彩音さんにどつかれるのは嬉しいが、石橋さんにどつかれるのはシャレになりそうにない。


 どよめきが笑いに変わりはじめた頃、教室の扉が開いた。

長沼先生が入ってきた。歩く姿はとても姿勢が良くて凛々しい。


 黒板の前で並んでいる三年生の隣に立つとメンバーを見渡して

「本当に集まったわねえ。今まで誰もいなかった部とは思えないわ」

と三年生と同じように感慨深げに言葉を漏らした。どうやらそこからの眺めは人に少しばかりの感動を与えるようだ。


 ひとしきり部員の顔を満足げに見回していた先生は

「皆さんもご存知の通り器楽部はこの六月に再活動を始めました。それまでは休眠中の……うん、言ってみれば、生まれたての部です。これから皆さんと一緒に作って行きたいと思います。幸いというかなんというかこの部には経験者が沢山います。それもコンクールでの上位入賞者だったりします。こんな事はまずありえません。本当にラッキーです。はじめて弦楽器に触れる人もちゃんと教えて貰えるので安心してください」

と生徒たちを見回しながら言った。


 何故か音楽室に拍手がまばらに響いた。一年生が嬉しそうに顔を見合わせながら手を叩いていた。


「先生は教えてくれないんですかぁ」

と石橋さんが話の腰を折った。軽い笑いが起きた。


「この部のモットーは生徒自身の自主性です。上級生がちゃんと教えてあげてくださいね」

と最後は問答無用の笑顔で石橋さんのツッコミを抑え込んでいた。

あの強面の石橋さんが手玉に取られる姿は見ていて清々しいものがある。石橋さんは本当に見た目はいかついが本当に親しみやすい人のような気がするがどうなんだろう……。あるいは女性に弱いのか……兎に角、まだ油断も予断も許さない。

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