第90話 酒の味


 僕はお猪口のお酒を一気に飲んだ。

喉がカーと焼けるような感じがしたがそれは一瞬だった。

甘い余韻が口の中に残ったが、すっきりとした味わいだった。


「美味しいなぁ」

と思わず声に出た。


「おろ? 味が分かるか?」


「うん。なんとなく」


「へぇ~」

オヤジはそう言うと安藤さんと顔を見合わせていた。

「間違いなく亮平も酒飲みになるな」

と安藤さんが僕の顔を見て言った。


「母親似やな」

オヤジが言う

「アホ、両方や」

すかさず安藤さんが突っ込む。いつもの二人の会話だ。


「なぁ、父さん」


「なんや?」


「実はな……」


 僕はさっき宏美の家であった事をかいつまんで話をした。

特にラ・カンパネラを弾いた時に感じた音の深さ、感じた奥行き、一音一音が雫のように落ちて来て湖面に広がるような音の広がり……それを解っていても再現できない自分の未熟さを語った。


 オヤジは日本酒を飲みながら黙って聞いていた。そう、いつものように黙って聞いているだけだった。


「で、今度伊能先生に僕の音を聞いてもらおうと思ってんねん」


「伊能先生ってお前のピアノの先生やんな?」


「知っとぉん?」


「ああ、名前だけな、知っとぉ程度や……そうやな……先生にちゃんと聞いてもらえ」


「うん。そのつもりや」


「しかし、あの先生では難しいと思うな。今のお前の音は」


「そうなん?」


「前の音なら多分何も問題なかったやろう。でも今の音はちょっと難しいかもな。どっから手をつけてええのか分からんやろうなぁ……」

オヤジはそう言うとお猪口の酒をグイッと飲んで

「まあ、でもあの先生ならなんとかしよるわ……多分」

と言ってまた手酌でお酒を注いだ。


「そうなんかなぁ」


「ああ、多分な」

 オヤジが何故『伊能先生ならなんとかできる』と言ったのかは分からなかったが、僕も何となくそう思った。僕が長年教わった伊能先生は、生徒に弾き方を押し付けるのではなくまずは自由に弾かせてから、生徒自身が自ら気づくようにもっていくタイプの先生だった。


 あの先生なら僕の音を理解してくれる、何かアドバイスを貰えるんじゃないかと勝手に期待していた。


「学校が始まったら会いに行くつもりやねん」

僕は空いたお猪口を手に取ってそれを、意味もなく眺めながらそう言った。

オヤジは徳利を持って

「そうしたらええ」

と言ってそのお猪口にお酒を注いでくれた。


「うん」

そう言って僕はお猪口に口を付けた。

流石にニ杯目も一気に飲むのは躊躇した。


 オヤジは安藤さんに

「こうやって息子と飲む酒も旨いもんやな」

と言ってお猪口の酒を煽った。


「ああ、まだちょっと早いけどな」

安藤さんは笑いながらそう言うと徳利を持ってオヤジに向けた。

「そうやな。あと二年はがまんやな」

オヤジはお猪口を差し出すと安藤さんの注ぐ酒を受けた。


「それ違うぞ。お酒は二十歳になってからや。二年後やと十八歳や」

やはり安藤さんは冷静なバーテンダーだ。


「あ、そうか!」


 僕達三人はカウンターで笑った。

僕はこの空気が好きだ。このオヤジ達の空気感の居心地の良さがたまらなく好きだ。

こんなユルイ大人に僕はなりたいと思った。


 この店に流れる空気はユルイ。時間の流れが他とは違うように感じる。でもそれが心地よい。

僕はオヤジと安藤さんの掛け合い漫才のような会話を聞きながら、『伊能先生に会いに行って、僕のピアノを聞いてもらおう』と心に決めた。

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