第5話 そしていつもの店で

 その日の夜、僕はオヤジに電話した。


「父さん、ありがとう。今日、宏美の兄貴にもお礼を言われたわ」

と僕は今日のこの兄妹と会った時の話をした。


「おお、そうか。あの子も律儀な息子やな。ま、お前の彼女も喜んどったやろ?」

とオヤジは笑いながら応えた。

相変わらずひとこと多い。


「彼女ではないが、喜んどったわ」


「ホンマにお前は細かい奴っちゃな…」

と呆れたようにオヤジは言った。しかし誤った認識は正さなければならない。


「あ、それからな、安藤が褒めとったでお前の事。ええ息子やって。父さんも鼻が高いわ」

とオヤジは思い出したように言った。


「え? そうなんや……安藤さんにまたお茶飲みに行くって言っといて」

僕は少し驚きながら応えた。


「おお、言うとくわ。ほなな」

 オヤジはいつものようにあっさりと電話を切った。

もっとちゃんとお礼を言うつもりだったのにな。

それと変な噂を流すなと。



 明日の夕方、安藤さんの店に行こう。

もしかしたらオヤジもいるかもしれないし…。




 次の日の夕方、安藤さんの店に行った。

オヤジは居なかったがカウンターで鈴原さんが飲んでいた。

「こんちは」

と僕が挨拶をすると

「おお、亮平かぁ。まあ、ここに座りいな」

と笑いながら横の席に座るように勧められた。


「この前は家族がお騒がせしました」

と応えながら僕は鈴原さんの隣の席に座った。


「いやいや。久しぶりに楽しい酒やった。一平とユノと飲むのも久しぶりやったしなあ」

「ホンマになぁ。それにしても、あの二人いつもよりテンション高かったな」

鈴原さんと安藤さんは交互に話しかけてきた。


「母はいつものテンションですけど……」

「ああ、そうかぁ……」

と鈴原さんが笑った。


「珈琲でええんか?」

「はい」

と僕は安藤さんに応えた。

鈴原さんの前にはビアグラスがあった。


「もう飲んでいるんですか?」


「今日の仕事は終わりや」

鈴原さんはビアグラスを持ち上げて笑った。


「鈴原さん、聞いて良いですか?」

どうしても聞きたい事があったので、僕は意を決して鈴原さんに尋ねた。

本当はオヤジから直接聞く方が良いのかもしれないが、オヤジ以外からの話も聞いてみたかった。


「ほい。何を?」

鈴原さんは気安く応じてくれた。


「あの……フローラの件なんですけど」


「ああ、あれね。さっき安ちゃんにも聞いたわ。亮平の彼女のお父さんの会社やってんなぁ」

と楽しそうに鈴原さんは聞いてきた。

予想通りオヤジはガセネタを広めてくれていた。


「いえ、単なる同級生です。冴子も彼女と同級生です」

僕はきっぱりと否定した。


「あ、そうなんや……安ちゃん、ガセネタやったな」

と落胆したように鈴原さんは言った。


「なあんや……」

と安藤さんも残念そうな顔をしながら僕の前に珈琲を置いた。


「いや、一平が『俺の息子の彼女のオトンやったわ。将来親戚づきあいするかもしれんから今の内に貸し作っとこ』とか訳の分からん事いうてやってきたからてっきりそうだと思っていたわ」

と鈴原さんが嬉しそうに話し出した。


本当に……オヤジは有る事無い事触れ回っているようだ……。


「しかしなあ。この店から俺の事務所に来るまでの五分で考えたっていうシナリオを聞いた時はびっくりしたわ」


「そうなんですか」


鈴原さんはその時の話を僕にしてくれた。


要するに話はこうだった。




 一平が電話をかけてきて、訳の判らんこの世で最も最低な部類に入る全く面白くないギャグをかましたと思ったら、急に鈴原のいる書斎までやってきて更に訳の分からん事を言ってきた。



「フローラ飛ばすんのヤメや」

一平は部屋に入ってくるなりそういった。


「はぁ? なんやて? あの会社は一度倒産させるんやなかったんかいな? 銀行の言いなりなるのも癪やっていうてたやろうが……」

鈴原は驚いて聞き返した。


 一平は書斎デスクの前にある応接ソファに腰を下ろしながら語り始めた。

「あのなあ、フローラの社長はなぁ、亮平の彼女のオトンやったんや。宏美ちゃんのオトンとはなぁ……気が付かなんだわ。将来親戚づきあいするかもしれんから今の内に貸し作ることにしたわ」


「ええ?? 親戚づきあい? なんやそれ?」

鈴原はまだ状況を呑み込めずに聞き返した。


「あの社長には三十前の息子もおるんや。それも高嶋珈琲の経営企画室で働いている。要するに大手食品メーカーで経営の中枢を担っているわけや。こいつを戻して社長にするんや」

一平は鈴原の質問には答えずに話を続けた。


「息子がおったんかぁ……高嶋の経営企画室って言ったら優秀なんちゃうんか?」

鈴原にとってその情報は初耳だった。


「オトンよりは間違いなく優秀やし、経営の勉強もちゃんとしとぉやろうな」


「そんな息子が潰れかけた会社に戻ってくるかぁ?」

鈴原はそんな息子が潰れかけた会社に戻ってくるとは思えなかった。


「潰さんかったらええんやろうが……だから潰さん様にお前の会社から金入れるんやろうが……」


「まあ、そうやけど……」

そう応えながら鈴原は、しばらく頭の中で一平の言った事を反芻しながら考え直した。

 

 スズハラがフローラの再建に手を貸すのは既に決まった事だった。

ただそれは一度フローラの負債を民事再生で片付けてからの予定だった。それを一平は反故にすると言い出したのだ。


 ノックの音がした。家政婦が入ってきた。

ちょうど鈴原が考えを整理しているそのタイミングで、珈琲を二つテーブルに置いて静かに出て行った。


 部屋の中には珈琲の香りが漂っていた。

暫く経ってやっと理解できたようで、鈴原は口を開いた。


「じゃあ、負債は残ったままやろ? うちの持株会社の連中が納得するかなぁ……」

と鈴原は一平の意見には懐疑的だった。


「そんなん簡単や。高嶋からも金を出させる。まあ三千万もあれば十分や」

と更に一平が畳み込んだ。


「これで、銀行とホールディングは納得しよるやろう」

と一平は自信ありげに話を続けた。


「まあなあ……オヤジ……いや会長は文句は言わんと思う」

鈴原は表情を変えずにそう応えた。


「そうやろ」


「でも高嶋の社長がOKするかぁ……」

まだ鈴原は不安を払拭しきれていないようだった。

 

 確かに資金的な問題はこれで解消されるだろう。実際には銀行との事前協議時に出た再建案では、民事再生を行わない方針でも協議されていた。その時には考えていなかった珈琲チェーン店の全国展開もしている高嶋と組むなら再建方法の選択肢も広がるのは間違いない。

鈴原は一平の案にはあまり不安を感じていなかったが、高嶋がこの案に乗るかが全く読めていなかった。


「自分とこの優秀な社員が家業を継いで建て直す言うたらOKせざるを得んやろう……でここでお前の登場や!」

と一平は軽く言うと

「『ウォッホン!! あ~うちの会社も金を出すから高嶋珈琲も出してもらえないかな』と交渉するんや」

と言い放った。


「おい、今のそのバッカぽい話し方は、俺の真似のつもりか?」

とすかさず鈴原がツッコんだ。


「あ、分かったぁ?」

と一平は小ばかにしたように笑って言った。


「なめとんかぁ」

さっきまでと違って鈴原の反応が早い。やはり悪口には敏感な様だ。



「いや、お前でダメならオヤジの会長に言うてもらえ。それなら間違いないやろ。なんせこの街でお前のオヤジに歯向かえる奴はあんまりおらへんからな。

これでお前はおいしい老舗のケーキ屋を手に入れて、高嶋は老舗のケーキ屋の美味しいケーキを他の店で出せる。もちろんフローラの喫茶で出す珈琲は高嶋から仕入れる。これで三千万は安い買い物や。どや?」


「まあな、高嶋は知らん仲でも無いしな。オヤジの名前を出せば文句は言わんやろ。それに貸倒れは嫌やからって泣きついてきた銀行やから、この案にはもろ手を挙げて乗るわな。だったら社長も替えんでもええんとちゃうか?」

というと鈴原は珈琲カップを持ち上げて一口飲んだ。


「アホか。誰がこの状況招いたんや? 責任取らさんかいな。銀行の顔も立てんとあかんやろ。それにこんなに苦しくなったのはあの震災のせいだと思っとるやろう? 確かにきっかけにはなったけどそれだけやないで。

そもそも儲かって脇が甘くなった社長があかん。人も大事にせえへんかったのもあかん。経営者やねんからな。けじめやな」


 一平が言ったあの震災とは一九九五年一月一七日に起きた阪神淡路大震災の事だ。

 あの未曽有の大震災でフローラのその当時あった五店舗が全て被害を受けた。


「そうなんか……親戚付き合いする相手にそんな事してええんかぁ?」

と鈴原は意外そうな顔で聞いた。


「それとこれとは別問題や。関係あらへん」

と一平はきっぱりと答えた。

彼は全くそういう事に関しては、意に介さないように話を続けた。


「それでや、あの地震であそこの全店舗が何らかの被害を受けた上に、数ヶ月営業もできなかったのは事実や。そこで銀行から金を借りたんやが思った以上に売上が上がらなかった。ここまでは同情の余地はあるわ。でもな、そこから後があかん」

と首を振った。


「何があったんや」


「売上が上がらんかった……いや四月ぐらいは少しは上がったかもしれん……なんせ神戸市民は甘いもんに飢えとったからな。しかしそんなもんは一過性やった。一番拙かったのは多店舗展開に走った事や。

銀行が適当な物件を持ってきて『ここなら売り上げが見込めるからどうや』って……。でもな、あの商売じゃあ五店舗までがええとこや。

確かフローラには番頭みたいなオッサンが昔おったはずやねんけど、そのオッサンがいつもそう言っていた。市場規模を測り間違えたらあかんって……まさにその通りや。そのオッサンもいつの間にか見いひんようになったけどな」


 一平は更に話を続けて

「結局な、銀行はフローラに売上を上げてもらいたい&バブル崩壊後の不良債権化した物件を処理したいでフローラの社長に多店舗展開を勧めたんや。

 銀行から多額の融資を受けた上に売り上げも厳しくて、返済を待ってもらったりしているから社長も断り切れなかったんやろう……全部受けてもうて、百貨店や地下鉄の駅前とか挙句の果てには女子大の食堂にまで店を出しよったわ」

ここで一息珈琲を飲んだ一平は鈴原に聞いた。


「どうなるかは鈴原……お前でも分かるわな」


「ああ、間違いなく味が落ちる」



「そうや、味も落ちるが、ありがたみも失せる。なんで五店舗までって言っていたかというのは市場規模もあるんやけど味の維持が第一や、それとブランドイメージや。

それをあの社長も商売を始めた頃は分かっとったんや。美味しいケーキというので売っていた店やで……結局、銀行の言う通り店は出したが売上は上がらずに撤退や。更に借金が増えただけや。

 だから正解は受けるのなら最低限の融資で、店舗を三宮と元町と北野町の本店だけにすべきやったんや。それをしなかった。経営の判断ミスや」


「その上まずい事にあの決済書見ていたら、原価がえげつないほど抑えられていた。気がついたか?」

一平は鈴原が出してきた決算書の原価を指さして鈴原の反応を待った。


「ああ、経費削減頑張っとるなって思ったけど」


「やっぱりその程度か……だからお前の会社には人がおらんっていうんや。ケーキは生モノや明日までおいておられへん。という事は売れ残った商品はどうなる?」


「捨てるか、社員が持って帰るかやろうなぁ」

鈴原は答えた。


「そうや、それが宿命みたいな商売や。ある程度の無駄は仕方ないんや。そこで原価の小麦とか抑えられているという事はどういう事や?」


「毎日売り切っていた……なんて事は無いわな……」


「そんなに売れとったら潰れるか! もしそうであったとしてもあの量ではな……」


「商品を作れていない」

鈴原は声を絞り出すように応えた。


「そうや。正確には『損益分岐点にも満たない数しか作れていない』や。売れ残りが怖くて、作れるもんも作れんようになったんや。社員も『経費節減』って何かのお題目みたいに言われ続けたんやろうな。もちろん新作も作れてへん」


「あそこは元々1ヶ月に1つや2つは新作を出すような店やったんや。それが全く出なくなった。

出てくる新作は売れ残ってもいいもんしか作らんようになった。これで多店舗展開して売れたら奇跡や。売れるもんを作るんじゃなくて、コストのかからない物を作る。本末転倒や」

と一平は一気にまくしたてる様に語った。


「一平……お前、そんな情報どこで仕入れてくるんや?」

鈴原は書斎の椅子に深々ともたれて天井を見上げて言った。


「決算書と帳簿を照らし合わせたらすぐに分かるわ。それにな、このケーキ屋の本店はどこや?」

と一平は鈴原の顔を凝視するように見て言った。


「北野町や」


「お前の家は?」


「北野町……」


「だったら自分で見に行け。日頃から嫁さんや家族にケーキの一つでも買っていたらすぐに分かる事や。偉そうにふんぞり返って社長室から出えへんからこんな簡単な事も分からんのとちゃうか? これぐらいの事やったら亮平でも分かるわ」



「商売は現場やぞ。現場を見て初めて分かるんやぞ。偉そうな経営理論とかマーケティング理論ばっかり頭に入れてもあかんねんぞ……という事で、フローラの社長は息子にするからな。後はお前のオヤジの説得と高嶋の社長の説得よろしく頼むわ」


「ああ……」

鈴原は一平の勢いに気圧されたように力なく応えた。


「じゃあ、今から安藤とこ行くぞ」

そう言うと一平は立ち上がりさっさとドアを開けて出て行った。


鈴原は書斎デスクの上に置いてあった携帯電話を手に取ると頭をかきながら席を立った。




 一通り語ったあとに鈴原さんが不安げな表情で聞いてきた。


「亮平……お前でも分かっていたのか?」


「分かるわけないでしょう……そんな事」

と僕は首を振って全力で否定した。


「そうやんなぁ……。それに、なんで俺が亮平の将来の嫁さんの家族の事まで考なあかんのや?」

と鈴原さんは安心したように笑いながら言ってきた。


「考えなくていいです。そもそも将来の嫁さんでもないし、家族でもありません」

僕は躊躇なく反論した。



「まあ、フローラのブランド力と知名度は案外まだあるし、倒産という傷もつけずに済む方がええからなぁ。そのブランド力と知名度を高嶋珈琲の珈琲専門店に卸す事が出来そうやったから……。

うちと高嶋珈琲は商売上色々と付き合いもあるからちょうどいい機会やった」


「でも一平に言われるまでは全然考えもしてなかったわ。それにしてもあいつは上田の息子が高嶋の下で働いているって良く知っていたな……感心するわ」

と鈴原さんは本当に感心したように言った。


「そうですよねえ」

と僕は頷きながらも鈴原さんが、感心を通り越して呆れかえっている様にも見えていた。


「本当に将来を嘱望されていた優秀な社員らしい、高嶋の社長も『抜かれるのは痛い』って言っていたけど、一平が『関連会社の社長になるねんから、またいつか本社に戻したら良いでしょう』とか適当な事言うとったわ」

と今度は間違いなく呆れて鈴原さんは言った。


「相変わらずの軽さやな。一平は」

安藤さんが頷いた。


「いや、あの息子は案外良い経営者になるかもな。もしかしたら高嶋珈琲が一番おいしい財産を手に入れるかもしれん」


「なるほどねえ…トンビが鷹を生んだわけか…」

と安藤さんは何度が軽く頷きながら納得していた。


「でもなあ、こういう交渉事の仕切りは流石やで……絶妙のタイミングで話を持っていきよる。いつの間にかなんか話が纏まとまっているから笑うわ」


「ホンマに流石やな一平は……No.1営業マンは伊達ではないな」

鈴原さんはそう言うとビールを飲んだ。


「No.1営業マン?」

 僕は鈴原さんに聞き返した。オヤジがサラリーマンだったなんて話は初めて聞いた。

「ああ、あいつはサラリーマン時代はTOPセールスで何回も表彰されていたからな。それも全社の業績のトップな」


「あいつのおった会社って全国に数百人ぐらい営業マンがおるんとちゃうんか?」

安藤さんが鈴原さんに聞いた。


「そこまでは知らんけど、規模から言うたらおったかもしれんなぁ……」

鈴原さんも詳しくは知らないようだった。


 僕はオヤジがネクタイ姿で真面目に仕事をしている姿が浮かばずに、まるで他人の話を聞いているような気がした。

今のオヤジの風貌からは想像もできない。


「ところで、なんで父は鈴原さんの元で働かないんですか? やっぱり同級生の下は嫌なんですかねえ?」


 僕はずっと思っていた事を鈴原さんに聞いてみた。今のオヤジは仕事をしているのか、遊んでいるのか僕にはよく分からない。


秀幸兄ちゃんは『優秀なコンサルタントだ』と教えてくれたが、それが僕にはピンとこない。具体的にどんな仕事をしてるのか全く思い浮かんでいなかった。


 ただ生活するのは困らない程度の収入はあるようだが、限りなくフリーターに近いイメージしかなかった。そんな認識だった。



「ああ見えてもあいつはクライアントも結構持っている優秀はコンサルタントやからなぁ。金と仕事には困ってないしな……でも、実は何度か誘ってはみた事はあるんや。その都度一平から断られたわ。『手伝いはしたるがお前の右腕にはなれん』って」

鈴原さんはひと呼吸おいてから話を続けた。


「うちの父親……つまり今の会長も言っていたんやけど『一平を入れるとお前は毎日寝れなくなるぞ』って」


「なんでですか?」

僕は聞き返した。


「それは、いつ会社が一平に乗っ取られるかと心配で眠れなくなると」

鈴原さんは真顔で言った。


「そんな事は……」

ええ加減なオヤジではあるが、流石にそんな事は無いだろうと僕は思った。


鈴原さんは僕の表情を見て頷きながら

「そう、間違っても一平はそんな事はせんよ。それは信じているが問題は、本人にその気がなくても周りがその気になる事や」

と言った。


「周りが……ですか……敵に回したくないが味方にもしたくないっていう事ですか?」

僕は先日安藤さんに聞いた話を思い出していた。


「そういう事や。あいつは気づいているかどうか知らんが、結構カリスマ性も高くてあいつが社長をやっても全然いけるんや。だからあいつの周りに人が寄ってくるんや。一平の上に立つ奴はそれ以上の人間か何も考えないアホかしかできんわ。

ま、俺のオヤジに言わしたら、『そもそもお前じゃ一平を使いこなせん』っていう事やねんけどな」

と鈴原さんの言葉から少し悔しさにも似たニュアンスを僕は感じた。


「じゃあ、オヤジはなんで自分で会社を興さないんですか? 今は個人事務所ですよね?」


「その通りやけど、本人に全然その気がないみたいやな……それに一平は、それを一度経験している」

と鈴原さんは即座に否定した。


「え?」

僕は思わず聞き返した。


「あいつはサラリーマンを辞めて元居た会社の上司と新しく会社を立ち上げたんや」


「そうなんですか……」

オヤジが独立して会社を立ち上げたという話は初めて聞いた。


「でもなぁ……あれはちょうど5年前やな。一平が裏切られたのは……」


「え…」

思わぬひとことにまた僕は聞き返してしまった。


「あかん……安ちゃん……俺飲み過ぎたわ。今日は帰るわ」

と鈴原さんは慌てたように席を立とうとした。


「そうか…そうやな。口がとっても滑らかになっているわ」

安藤さんは苦笑いしながらそう言った。


「亮平。今の話は内緒やで。一平に怒られるから」


「ちょっとそこまで言っておいて、その先も教えてくださいよ」

と僕が言ったその時に扉のカウベルが鳴った。


 振り向くと扉が開いてオヤジが入ってきた。

僕は思わず鈴原さんと顔を見合わせてしまった。



「なんや?俺の息子まで入れて悪口でもいうとったか?」

オヤジは僕達を見てそう言いながら、僕の隣に座った。


「なんで分かる……」

すかさず安藤さんが応えた。


「分からいでか……。お前らの顔に書いてあるわ」


「いや、例の亮平ちゃんの彼女のお父さんの会社の話をしていたんや」

少しうろたえながら応える鈴原さん。

すかさず

「だから……彼女ではないですから……」

と否定する僕。


変な空気が漂う中、僕は

――う~ん。宏美彼女説が定着しつつあるなぁ…いつかこれが本人の耳に入るんじゃないか――

とそっちの方が心配になっていた。

 

 オヤジはそんな変な空気を気に留める事も気が付くこともなく

「ああ……あれかぁ……何とかなったな。でもこの話があと一年……いや半年遅かったら、ここまでまとまらんかったなぁ」

と言った。


「そうなん?」

僕は思わず聞き返してしまった。そして鈴原さんも椅子から上がりかけた腰を下ろして、僕と同じようにオヤジの次の言葉を待っていた。


「まあ、売り上げが低迷していると言っても、単年度で見たら収支はまだ何とか支えられる程度の赤字や。だから銀行以外の債務はそれほどなかった。その上、給料も何とか出せているのでそれほど社員も辞めていなかった。こういう場合は優秀な社員から辞めていくからな」

とオヤジは語りだした。


 安藤さんがオヤジの前に冷えたビールが注がれたグラスを置いた。

オヤジはそれを手に取ると、一気に飲んだ。


「う~ん。仕事が終わった後のビールは美味い!!」

本当にオヤジは美味そうにビールを飲む。


「お前、今日仕事しとったんか?」

と鈴原さんが聞いた。


「おお、大事な仕事をしとったわ。鈴原家のご令嬢を駅までお迎えに上がってましたわ」


「あ、冴子の奴、またお前に電話したな。アッシーなんかせんでええって言うただろうが…」

と鈴原さんが少し憤りながら言った。


「まあ、ええがな。ついでや。それよりもあの会社な。割と優秀なパティシエが辞めずにおってくれたから良かった。まだ味を維持できる。社員のやる気も消えていない……これがあと一年遅かったら、不良債務も増えるし人も辞めていっただろうから難しかったやろうな。そういう意味ではラッキーやったわ」


 オヤジは空になったグラスを持ち上げて、「お代わり」と安藤さんに振って見せた。

本当に一気に飲んでしまった。よほど喉が渇いていたんだろう。


「あの社長もな。最初の頃は酒も煙草もやらん人やった。『ケーキの味が分からんようになる』ってな。

それが銀行との付き合いで飲みに行くようになって酒と煙草とついでも麻雀も覚えてな。本人はパティシエから経営者になるためには人付き合いも大事な事だと言うとったけど、言い訳や……あんなん。勘違いという堕落やな」


「よう知っとるなそんな事」

鈴原さんが感心したように聞いた。


「昔、その麻雀やっていた相手が俺や。あの社長はカモやったわ。安ちゃんも一緒にカモってたで……なあ?」


「まあな、客でも何でもないのに、接待や言いながら容赦なかったからなお前」

と安藤さんは笑いながら応えた。


「当たり前や。授業料や」

とオヤジも笑った。


「え? なんなん? それ?」

鈴原さんは驚いたように聞き返した。


「大したことや無い。あの社長な、銀行員との接待麻雀でも負けるほど弱かったんやけど、こっそり練習して強くなりたかったんやろうな。飛び込みで俺と安藤がいつも遊んでいる雀荘に来るようになったんで、麻雀の極意を懇切丁寧に身をもって教えてあげたんや」


「そうそう。まだ俺たちが相手で良かったで。ある程度で止めてあげるから。ホンマに怖いもん知らずなおっさんや」

安藤さんも一緒にやっていたのか…この二人は一体何者なんだ?


 鈴原さんが口を開いた。

「大したことないって……なあ、あの社長をどんどん堕落させたんお前らとちゃうんか? そんな気がするんですけど…」


 安藤さんとオヤジは口をそろえて

「それは気のせいや」

と力強く否定した。


「あの社長と会った時に俺の顔見て、な~んにも言わんかったやろ? 全然覚えとらんで、あの社長。

それだけ人に関心ないんや。そんな奴がTOPにおったっかて、たかがしれてるわ。そう思ったわ。落ちるべくして落ちたと……。

まあ、そういう事であの社長の事は良く知っていたんや。まあケーキ職人としてはええ腕してんねんから、顧問になった事で職人の気持ちを思い出してくれたらええねんけどな。息子もそれを期待していると思うわ」

とオヤジは一気にまくしたてる様に言った。


「今、なんか上手くまとめたやろう?」

鈴原さんが顔をしかめながら聞いた。


「そんな事無いわ。ま、鈴原は金持ちのボンボンで生まれながらに堕落した男やけどな……あ、鈴原、社員新たに二人採用したからな」


 それにしもオヤジの話はコロコロ変わる。話しながら、頭の中では同時に次に話す事も考えているんだろうな。ついていくのが大変だ。そして絶妙のタイミングで話題を変える。


「え?そうなん?」

既に鈴原さんはさっきの話を忘れて、もうこの話に乗り始めた。


「ああ、昔あの店の立ち上げからおったおばちゃんね。店員のマナー研修からみんなやっていた人や。それとチーフパティシエに一名。これも昔居た奴ね」


「社長が狂うと社内の歯車も狂う。ホンマに居て欲しい人を辞めさしよるからな。だからお願いして帰ってきてもろたわ。明日面接頼むわ」


「分かった。時間作るわ。でも一平……なんでそんな事まで知っているねん。それも麻雀情報か?」

鈴原さんが本当に不思議そうに聞いてきた。


「ちゃうわ。だからお前はあかんってオヤジ…いや会長に言われんのや。お手伝いの富樫さん、娘がおるん知っているか?」

とオヤジは本当に呆れたような表情で鈴原さんを見下して言った。


「知っている」

上目づかいで鈴原さんが応えた。


「だったらその娘がどこで働いているか知っとうか?」

オヤジは見下したまま言った。


「いや、知らん……けど……まさか…」


「そうや。あのケーキ屋や。もう十五年以上も働いているで。これなぁ……会長も知っていたぞ。知らんかったんお前だけや」


「え? そうなん……」


「ほんまになぁ……お前は余裕がないからな。ごはん食べる時に新聞ばっかり読んどらんと、お手伝いさん達とか家族とかと話をせえよ。それの方がよっぽどええ話聞けるで」

とオヤジは呆れ果てたように言った。

鈴原さんは論破されて落ち込んでいるように見えた。


「情報っていうのはどこにでも転がってんのや。それを見つける事が出来るか出来ひんかは本人の心がけしだいやな。

亮平、お前もな、大人になったら働くようになると思うけど、情報の大切さを覚えときや。特に人の情報はな」

と最後は僕に話を振って来た。


「え? うん……」

と応えたが実はよく分かっていなかった。雰囲気にのまれたというのが事実だ。


 落ち込んでいた鈴原さんだったが

「そうかぁ…一平色々最後までありがとう。助かったわ」

と感謝の言葉を述べたが、オヤジは更にたたみかけるように話を続けた。


「あほ、終わってへんぞ。これからやぞ。大事な事はあのケーキ屋の経営を立て直して、あの息子を一人前の経営者にしてやらんとな。それは鈴原……お前の仕事や」


「分かった。それはやる」

と鈴原さんは今度は意を決したように応えた。


 なんとなくこの二人の関係は、今までこういう力関係でやって来たんだろうなぁと思ってしまった。


「ホンマにまた安く、こき使われたわ……。今日はお前の驕りな」

とオヤジは笑って言った。


「ああ、今日は驕りでええわ」

鈴原さんがそう応えるとオヤジは

「亮平。オカンに電話したれ! ただ酒飲めるぞって……飛んできよるで。あのうわばみ女は」

と叫んだ。


「一平ちゃん、それだけは勘弁したってえな」

と言いながら鈴原さんも笑っていた。多分一緒に飲みたいのだろう。


「いや、勘弁せえへん……このしみったれた店の売り上げを上げたらな、あかんからな」


「しみったれただけは余計や。あほ」

と笑いながら安藤さんは突っ込んだ。


 ここで一番冷静なのは安藤さんかもしれない……。


そして、今日もただでは帰れない予感がする……。









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