第29話 本気

「亮平。お前今まで本気で何かをやったことってあるんかぁ?」

安藤さんとシゲルのやりとりを聞いていた僕にオヤジが聞いてきた。


「本気?」

唐突に聞かれて僕は戸惑った。


「ああ、なんでもええねんけど、何かのめり込んだ事とか、これは本気でやってきたって事ってあるんかぁ?」


「ない……と思う」

と僕は首を振った。唐突にそんな事を聞かれても答えに困る。


「やっぱりなぁ……ピアノはどや? ずっと弾いていたやろ」

オヤジは僕がピアノを習っていた事を知っていた。


――そうか、ピアノの発表会に来てくれていたのか――


とすぐに合点がいった。


 ピアノは冴子と宏美と一緒に習っていたからな。僕が気がつかないところで見ていたんだろう。


「う~ん。本気といえば本気やけどなぁ。でも、まあ、あれは趣味かな。適当とは言わんけど、必死なって弾いたという記憶もないなぁ」


「ふ~ん。なるほどなぁ……お前も器用貧乏なタイプやしな」

オヤジはそう言うと腕を組んでテーブルのグラスを見つめていた。グラスの中には大きな丸い氷が一つと琥珀色のスコッチが半分ぐらい残って天井の照明の光に淡く反射していた。


「器用貧乏?」

僕はオヤジに聞き返した。

「ああ、なまじ器用であるが故に全てが中途半端に終わるって事や。お前を見ていてずぅと気になっていたんや」

オヤジは腕組みしたままそう言ってまだ考えているようだった。


「シゲルとお前の違いはそこかもな……。シゲルはどう見ても器用やない。生き方自体も不器用や。だから周りと勝手にぶつかって、勝手に追い込まれる。まあ自業自得とも言うけどな。あいつはいつも周りに対していつも過激に真剣にぶつかってまうんやろうな。お前は幸いというかなんというかそんな事は無かった。お前が感じているシゲルとお前の違いはそこやな」


いつの間にか安藤さんとシゲルも僕とオヤジの会話を聞いていた。


「シゲルは分かりやすい奴や。これからも色々とぶつかって行くやろう。でも、シゲルが真剣にぶつかっている限り遠回りしてでも結果は後からついてくるし、それがシゲルの武器になるやろうな。人生の財産にもなるな。シゲルもその調子で頑張れよ」


シゲルは黙って頷いていた。


 オヤジは横目でシゲルを見ながら腕組みを解いた。そしてグラスを持ち上げてスコッチを飲み干すと、安藤さんの前に空いたグラスを静かに置いた。


「同じもんでええんか?」

安藤さんが聞いた。

「ああ」

とオヤジは頷いた。

そして僕を見ると

「学生の間に何か打ち込めるものを見つけられたらええな」

と言った。


オヤジはまだ何か言いたそうな表情をみせていたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、僕はそのオヤジの表情の陰に、何か意味深な寂しげな笑いを感じた。



 安藤さんがオヤジの前に新しいグラスを置いた。


「安ちゃん。やっぱりこいつも器用貧乏やわ」

オヤジはグラスを見つめたまま安藤さんに言った。


「親子やなぁ」

と安藤さんは笑いながら応えた。


「まぁな」

オヤジはそう言うとグラスを手で弄ぶように軽く振っていた。

氷がカランと軽い音を立てた。


 ほんのしばらく間があって安藤さんはオヤジに聞いた。

「かける言葉はそれだけでええんか?」


「それだけでええ。余計な話はするもんやない」

オヤジはまだグラスを見ている。


「せやな」

と安藤さんはオヤジのひとことに納得したように頷いた。


 オヤジと安藤さんの会話はいつも短い。

しかし当の本人たちはそれで充分事足りるようだ。


 僕の人生で本気で何かを成し遂げた記憶は無かった。

勉強にしろ体育にしろ絵にしろピアノにしろそれなりに卒なくこなすタイプだと思っている。それって悪いことなのか? いや、オヤジは悪いとは言っていなかった。ではなんだ?


 シゲルに対する僕のジレンマの原因がそこにあるとオヤジは言っていたが、本当にそうなのか?

ただ不完全燃焼感はなんとなく持っている。シゲルの後先考えずに行動を起こせる性格を羨ましいと思った事も何度かある。


 しかし今時の高校生ってこんなもんだろう?……本気で何かに打ち込める奴ってそんなにいないだろう?……いや、違う。僕は何か違う答えを求めている。だからその答えが何かも分からないので、漠然とした不安感・焦燥感を感じているのは確かだった。

そう、何かの答えを求めている。どんな質問をオヤジ達にしたら良いのかさえも分からないというのに……。


 オヤジの言葉が頭の中を駆け巡る。

急に臓物をえぐられたような気がしてきた。多分誰も気が付いていない。

しかしこういう時に僕は周りにそんな風には見せないように平静を装っている自分を知っている。

そんな自分に対しても、今何か違和感を感じ始めている。


 オヤジの顔を見た。

さっき僕と話をしていた表情はどっかに消え去り、いつものバカオヤジの表情で安藤さんと話をしていた。

シゲルはその話を楽しそうに聞いている。


 僕が今のめり込めるもの……そう考えていたら、急に思いついてオヤジに聞いた。


「父さん、父さんが高校生の時には何にのめり込んでいたん?」

オヤジの表情が止まった。


「父さんかぁ……俺は何も無かったなぁ。さっき安藤が言っただろう? 親子やなぁって。俺も器用貧乏やったからな。強いて言えばバンドかな。安藤とバンド組んでいたわ」

オヤジは視線だけ僕に向け横顔でそう答えた。 


 僕は安藤さんの顔を見たが、安藤さんは無表情だった。僕が視線を向けている事に気がついていないようだった。


「え? 亮平のお父さんバンド組んでいたんですか? どんなバンドを?」

とシゲルが興味津々な表情で聞いてきた。


「単なるロックバンドやで」

とオヤジはひとこと言った。


「へえ、じゃあ、BEATLESとかやりました?」

とシゲルは間髪入れずに聞いた。


「それは中学生の頃やな。高校生になったらパープルとかツェッペリンとかクリームなんかもやったなぁ。なあ、安藤」

とオヤジは安藤さんに同意を求めるように話を振った。


「ああ、そうやったな」

と安藤さんは頷いた。


「父さんは何をやっていたん?」

と僕が聞くと

オヤジは間髪入れずに

「縦笛とハーモニカとカスタネットや」

と真顔で即答した。


「そんな訳ないやん。ホンマはなんなん?」

と僕が聞き返すと

「タンバリンや」

と取ってつけたような答えを返した。


「嘘やろ?」

と僕が言うのと同時に

「お前は岸部シローか!」

と安藤さんがツッコミを入れた。

僕はその人が誰か知らない。


「ギターやギター」

面倒くさそうにオヤジは言った。それは少し照れているのかもしれないと思った。

僕にはオヤジと楽器は全く結びつかなかった。イメージが全然湧かない。


「へえ。オヤジがギターかぁ。似合わんな」

と僕は言った。なんだかオヤジの弱みを握ったような気がして楽しかった。


「ほっとけ」

とオヤジは吐き捨てるように言った。


「じゃあ、安藤さんと一緒にギターを弾いていたんや」


「え? あ、そうやな。そうやったな安ちゃん」


「ああ」

と安藤さんは素っ気なく応えた。


「父さん弾いてよ。ここにギターあるやろ?」


「ああ、また今度な。今日はもう面倒臭いわ」

本当に面倒臭そうにオヤジはそう言うと、笑ってグラスを口に運んだ。


 結局その話題はそれで打ち切られ、十二時を回る頃に僕とシゲルは帰る事にした。

オフクロが殴り込みに来なくて良かった。この歳でシゲルの前でオフクロに迎えに来られるのはちょっと恥ずかしい。さらに敗北感に苛(さいな)まれそうな気がする。


 僕とシゲルはオッサン二人を残して店を出た。

「亮平。今日は楽しかったわ。この店また来るな。入り浸るかもしれん」

とシゲルは満足げに言った。


「ええんちゃうか」

僕はシゲルにこの店を気に入ってもらえてほっとしていた。


「お前のオヤジ、なんか渋いな」

「そうかぁ?」

「ああ、安藤さんもやけどかっこええ中年やわ」

「かなぁ?」

シゲルにそう言われて僕は少し嬉しかった。


「うん。恰好ええわ」

とシゲルは大きく頷いた。


「亮平、また来るわ」

「ああ、じゃあな」


 僕達は店の前で別れた。シゲルはここからトアロードを南に下っていった。

僕は山本通りを西に歩いて帰った。


歩きながら考えていた。

――本気で熱中できるものかぁ――


そんなものはないなぁ……。


月が綺麗な夜だった。


こんな日は『月光』でも弾こうかな。



 


 家に帰るとおオフクロはまだ起きていた。

僕は安藤さんの店でオヤジに会った事とシゲルという友達も一緒だった事を話した。


「父さんって高校生時代にバンドを組んでいたんやってね。安藤さんと一緒にギター弾いていたんやぁ? 母さんは父さんのギターを聞いた事あるん?」

と僕は聞いた。


「え? お父さんがギター? ふぅん。ギターって言うたんや……」

とオフクロは意外そうな表情で呟いた。


「え? ギターとちゃうの?」

僕はオフクロの表情が理解できずに聞き返した。


「え? ギターも弾いていたよ」

と少し慌てたようにオフクロは応えた。


「”も”って他には何を弾いていたん?」


 オフクロの顔に余計な事を言ってしまったという言葉が浮かんでいた。

しばらく黙っていたが観念したように口を開いた。

「カスタネットに縦笛にハーモニカ」


「ええ? それってホンマやったんかぁ!! 父さんが最初に言うた楽器がそれやったわ」


「そうよ。お前のお父さんはカスタネットの天才やったんよ。その上タンバリンなんかは凄かったわ。まるで*岸部シローのように!! お母さんはそれに惚れたんよぉ」

と完全に馬鹿にしたようにオフクロは言った。


 なんだか嘘臭い話だけど、オフクロもオヤジも同じ事を言うんだからもしかしたらオヤジは本当にカスタネット上手いのかもしれない。


――オヤジとカスタネットねぇ――


しかしどんなに想像力を逞しくしても、オヤジがカスタネットやタンバリンを叩いている姿が思い浮かばなかった。

まだギターを弾いている姿の方が想像できる。

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