共に生きる約束

 「じゃあ、有休は取らんと、今日で退社と言うことでええんやね?」


 佐緒里に念を押され、美葉は神妙に頭を下げた。

 「当たり前や。当初の予定通り三月末で退社しとったらこんなややこしいことにならんかったのに。金に目がくらみよって。彼氏と喧嘩したからって京都に戻ってくるのもどないかしている。挙げ句の果てに取った有給返上して働くなんてあり得へん。」

 片倉が佐緒里の横でぶつぶつと文句を言っている。片倉に三月退社の話をしたことがあったかなと一瞬疑問がよぎったが、これまでかけた迷惑を振り返ると、些細なことに突っ込みを入れるべきでは無いと思い頭を下げ続けた。


 「いや、片倉さんの言うとおりです。本当に、我が儘ばっかりで申し訳ありません。」

 「ええよ。いつかこうなるって、皆思ってたし。」

 佐緒里の言葉に顔を上げると、一恵と見奈美が涙目で頷いていた。


 「じゃあ、退職届に名前を……。」

 佐緒里が書類の棚を漁るため振り返った、その時だった。


 「美葉さーん!」


 自分の名を呼ぶ声が、小さく窓の外から聞こえた。聞き覚えのある声に、美葉の心臓が跳ねる。


 「まさか……。」


 そう呟いて、はじかれたように窓辺に駆け寄り、がらりと窓を開けて身を乗り出した。声は確かにその人のものだったが、そんな筈は無いと思った。けれど、聞き間違いではなかった。サッシを握る手が震える。

 カフェの入り口の真下に、正人がいる。紺色の作業着を着た正人が、真上を見上げてもう一度美葉の名を呼んだ。


 ここは、京町家である。


 スペースデザイン事業部のオフィスは建物の一番奥にある。入り口付近にいる正人の姿は美葉から小さく見えた。


 「正人さん!」


 美葉は声の限りに叫んだ。振り返った正人は、思わぬ場所にその姿を見つけ慌てふためく。踵を返し美葉の元へ駈け出したが、飛び石に足を取られ、身体が宙を舞った。ああ、と美葉は悲鳴を上げた。美葉の後ろで、スペースデザイン事業部一同も悲鳴を上げる。


 作業着のズボンからハラハラと木片が舞う。蝶の羽根のように薄い木片は、日差しを跳ね返して白く光る。鉋で削った木材が、折り返したズボンの裾に入り込んでいたのだろう。正人は両手を前に伸ばしていたが、受け身をとれず顔面から着地した。


 大きな衝撃音に思わず目を瞑る。だがすぐに目を開けて更に身を乗り出した。正人は地面に大の字に寝そべったまま、動かない。


 「え……、死んだ……?」

 見奈美が背後で物騒なことを呟き不安に駆られたが、次の瞬間正人はむくりと起き上がり、また一心不乱に駆け出した。飛び石の横を通ればいいのに懲りずにその上を走るので、また足を取られてよろめく。しかし今度は体勢を立て直し、やっと美葉の真下に辿り着いた。


 「美葉さん!谷口美葉さん!」


 両手に握りこぶしを作り見上げるその鼻から、たらりと赤い筋が落ちた。


 「ごめんなさい!美葉さん!僕は美葉さんが大好きです!どうか、どうか、僕と一緒に生きていって下さい!」


 力んだ正人の顔が真っ赤に染まっている。必至の形相で見上げる正人と視線が絡まる。正人の名を呼びたいのに、その言葉に答えたいのに。それなのに胸が詰まり、言葉が全く出てこない。だから、言葉の代わりに何度も何度も大きく頷いた。


 身体を窓から離す。


 駆け出そうとした視界を、ひらりと一枚の紙が遮る。


 「はい、今日の日付と名前!」

 佐緒里が右手を伸ばし、「退職願い」と書かれた用紙を美葉の眼前に翳していた。その退職願いを受け取り、美葉は今日の日付と名前を書く。手が震えて、字が踊ってしまう。


 「はい、オッケー。行ってらっしゃい。」

 日付と名前を確認した佐緒里は、ぽんと美葉の背を押した。押された勢いで半歩前に出た美葉は振り返り、その温かな眼差しに大きく頷いた。


 オフィスの入り口まで駈けて行きドアノブを握ったが、ハッと気付いて立ち止まり、振り返る。


 佐緒里が、片倉が、見奈美が、一恵が、ニコニコと笑って手を振っている。


 「お世話になりました。本当に、ありがとうございました。」


 美葉は、丁寧に頭を下げた。頭を下げると、涙腺も緩んだ。でも、最後を涙で締めくくるのが嫌だった。一呼吸置いて笑みを浮かべてから顔を上げ、もう一度一人一人に視線を送った。ありったけの感謝を込めて。そして、くるりと背を向ける。


 スペースデザイン事業部のドアをゆっくりと開け、外に出ると同時に走り出した。フローリングのパネルが並んでいる。その間をすり抜け、赤い矢印と反対の方向へ階段を駆け下り、抹茶ソフトを手にした客の横をすり抜けて外に出る。途端にもわりと熱い空気が身体を覆う。


 ずっと遠くに、正人がいる。


 美葉は正人向かって駆け出した。サルスベリの花が揺れる。正人も、美葉に向かって走ってくる。タイトスカートのせいで足が開かないし、キトゥンヒールのパンプスは走るのに不向きだ。けれど、美葉の目には正人しか映っていないし、そこに辿り着くことしか考えていない。


 「あ。」


 パンプスの爪先を飛び石の端にぶつけた。加速度のついた身体がふわりと浮き上がる。その身体を、正人の腕が抱き留めた。勢いで美葉の身体がくるりと半回転する。


 正人の身体から、ふわりと木の香りがした。


 着地してからふっと息を吐き顔を上げると、鼻の下に赤い筋を付けた正人が、瞳を潤ませていた。


 「美葉さん、ごめんなさい……。僕は、本当に情けなくて……。」


 もそもそとつたない言葉を紡ぐ唇を指で塞ぐ。むぐ、と正人が声を漏らした。美葉は一度目尻を拭って、正人を見つめる。


 「欲しいのは、そんな言葉じゃない……。」


 胸は相変わらず熱いもので一杯で、言いたいことを伝えられない。やっとそれだけを、正人に伝える。正人の瞳が一瞬揺らぎ、喉仏が大きく上下した。紺色の肩を揺らして、熱い息を吐き出す。正人の瞳が、真っ直ぐに美葉を見つめた。

 

 「美葉さん、愛しています。僕は本当に駄目な人間ですけど、どうか、ずっと僕と一緒にいて下さい。」


 美葉は、大きく頷いた。


 「もう、絶対にはなれないって、約束して。」

 「はい!僕はもう二度と、美葉さんから離れません!」


 一杯だった胸がはじけて熱いものが込み上げる。美葉は正人の首に飛びつくように抱きつき、そのぬくもりを確かめた。正人の腕にもぎゅっと力がこもる。


 正人の親指が、美葉の目尻をそっと拭った。指の腹が血で染まっている。正体に気付き、思わず笑う。


 そんな小さな事、どうでもいい。これから起る幸せな珍事はきっと想像を遙かに超えてやってくるはず。


 唇を合わせる。密着した胸元に正人のぬくもりを強く感じる。


 ここは職場やぞ-なんてぶつぶついう片倉の声が頭上から聞こえてくるが、この際無視しておく。

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