アキへの想い-2

 幸せな時間が、このままずっと続くと思っていた。


 だけど、突然、あっけないほど簡単に、どこかへ消えてしまった。


 赤ちゃんは、死んでしまった。

 お母さんみたいに、突然に。


 アキに大きな怪我がなかったのが救いだった。でも、それ以来アキはいつも俯いて、何も話さなくなった。窓辺の椅子に座ることも、なくなってしまった。


 流産が、ショックだったんだ。自分も、赤ちゃんがいなくなったことが凄く悲しい。けれど、アキの悲しみ方は尋常じゃなかった。


 近くのお寺で「土仏」の作り方を教えてくれると聞き、少しでも慰めになればと思って作った。手渡したとき、やっと少しだけ笑ってくれた。


 『正人は、考えてた?……名前。』

 土仏を胸に抱いて、アキが尋ねた。名付けが全く念頭に無かったことに気付いて、ばつが悪かった。


 窓の外から、チリンチリンと風鈴の音が聞こえてきた。二人同時に、その音へ視線を移した。少し前に二人で散歩に出かけて、露店を見付けた。その時二人で選んだものだった。


 そう言えば、二人で出かけたのはあの一回だけだったかも知れない。


 『スズにする』

 アキが呟いた。

 『この子の、名前』


 アキの心は、癒えなかった。青い顔で、身体を小さく丸めてベッドの上に座っている。


 どうしていいのか、分からなかった。

 分からなくて、そんなアキを見ていられなくて。


 逃げた。


 家具を作る。何もかも忘れて家具を作る。家に帰らず、家具を作る。


 ある日お爺さんに言われた。


 『闇雲に家具を作るのではなく、人を幸せにする家具を作りなさい。家具は人に使って貰ってやっと役目を果たせる物だ。人の心を見つめて、その人の求める家具を丁寧に作りなさい。……正人の一番大切な人が何を望んでいるのか、考えなさい。』


 「人を幸せにする家具」


 今までで一番の難題だった。


 幸せって何だろう。どんな形をしているのだろう。計算式では決して導き出せないものだ。それをどうやって見付けて、家具にしたらいいのだろう。


 その難題にのめり込んでいく内に、アキの事を忘れてしまった。


 ある日、佐野さんから呼び出された。呼び出されたと言っても、自分の家だ。


 『お前にこの人を任せられない。俺が、面倒を見るから。』

 テーブルの上に、離婚届が置いてあった。アキの名前はもう、書いてある。何も言わずに、その名の隣に自分の名前を書いた。


 『名前、貰っていい?』

 アキに聞かれて、よく分からないまま頷いた。


 『ごめんね。』

 そう言って、アキは出て行った。

 自分の衣服と、スズだけを持って。


 二人と入れ違いに、警官がやって来た。

 『あなたの奥さんが歩道橋の階段から落ちた時、男に突き落とされたように見えたという目撃証言がありまして。』

 そう言って、防犯カメラの映像を見せた。映像には確かに階段を上るアキが小さく映っていた。その歩調に合わせるように、歩道橋を歩いてくる小太りの男がいた。階段を上りきったアキは、男の背中に隠れてしまった。男が手を伸ばしたように見えた。直後に、アキの身体が階段を落ちていった。

 『この男、例の事件の加害者によく似ているんです。奥さんから何か聞いていませんか?』

 『例の事件って、何ですか?』

 警官は不思議そうな顔をして、アキが被害にあった事件を話してくれた。


 警官が帰った後、ダイニングの椅子にへたりこんだ。頭がワンワンと音を立てる位色んな場面が浮かぶのに、何も考えられなかった。


 アキは、流産のショックで引きこもっていたわけではなかった。あの男に怯えていたのだ。自分を探して、やってくるのではないかと。


 それなのに、一人にしてしまった。


 暫くして、警官から電話があった。別の角度から映る映像が見つかり、男がアキに触れていないことが判明したので、事件にはしないと淡々と告げた。


 男は、何食わぬ顔でこれからも生きて行き、アキを探し回るのだろうか。だとしたら、名前を変えて、見知らぬ土地に行って良かったのかも知れない。

 

 アキが去り、アキが抱えていた秘密を知るという嵐のような時間が過ぎた。頭はパニックを起こしてぐるぐる回り、身体は痺れて動かない。そんな状態で、一日ダイニングの椅子に座って過ごした。


 夕方の光を受けた椅子が、ぽつん、と、窓辺に置いてあった。


 それを見て、間違いに気付いた。


 椅子を、もう一つ作らなければならなかった。テーブルも。小さくてもいい。二人分の食事を並べることが出来るテーブルを。


 そこで、アキが作る料理を、食べなければならなかった。

 毎日、ちゃんと家に帰って。

 

 日々の営みを、二人で紡いでいかなければ、ならなかった。


 家族としての時間を、過ごさなければならなかった。


家族になろうとしなかった自分を、アキは信頼してくれなかったのだろう。だから、何も話してくれなかった。


***


 人を幸せにする家具を作るのならば、フルオーダーメイドでないと、無理だ。


 人の幸せはそれぞれ違う。工場で生産する家具では、無理なんだ。


 お爺さんにそう伝え、工房を建てたいと言った。勿論反対されたけれど、「約束を果たすのならばフルオーダーメイドの家具ではないと無理だ。会社では出来ないことだから、個人の工房を建てる」と言い続けた。


 何度も反対されたけれど、最終的にお爺さんは当別町という見知らぬ土地の廃校に、工房を建てる段取りを付けてくれた。


 三月初旬の早朝に、その町へ旅立つことになった。社宅なので、家具類は置いていっていいと言われていた。


 元々、そんなに荷物はなかった。最低限の衣類をリュックサックに詰めた。お爺さんから、2㎏の米を餞別に貰った。それだけを持って、新しい土地に向かおうと思っていた。


 少しの時間を過ごした家に「ありがとうございました」と頭を下げた。

 顔を上げたとき、アキの椅子が目に飛び込んでいた。


 窓辺にポツンと佇んでいる。そこに座るアキの背中が鮮明に浮んだ。


 『アキをまた、一人にしてしまう。』


 咄嗟に、椅子を掴んでいた。背もたれを抱きかかえて、外に飛び出した。

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