どこの馬の骨
「健太、離れに誰かいるようだけど、どうしたんだ?」
稲苗の管理のためビニールハウスの温度と湿度を調整してまわっているところだった。声の方を振り返ると険しい顔をした両親がハウスの入り口に立っていた。父の伸也は、上背のある胸元で腕を組んでいた。その横で神経質そうに母の文子は眉間に皺を寄せている。伸也は短腹な一方で情に厚いから、事情を話せば納得してくれるだろう。問題は、文子の方だった。
健太は作業の手を止めて、二人に向き直る。出来るだけ穏便に話をしなければならない。
「実はさ、正人の元嫁って親子が今日突然現われたんだ。職を失って、住むところも追い出されて困り果ててやって来たらしい。美葉の手前、正人のところに置いておくわけにも行かないから、とりあえず家に連れてきた。」
伸也は目を見開いてへーっと声を上げた。文子の眉間の皺が更に深くなる。
「正人に嫁がいたのかよ。あいつも隅に置けねぇな。」
「だべ?俺も驚いたぜ。あいつの口からそんなこと、一度も聞いたことねぇからさ。」
健太は出来るだけ伸也に同調した。
「したら子供って正人の子供かい。」
「そうなるべさ。」
「かー!ガキこさえといて女と別れてそれきりかい。正人にはがっかりだな。」
女の方が浮気して別の男と出て行ったのだと言いかけて、やめる。悪い印象を与えるわけにはいかなかった。
「正人は今収入も安定しねぇから、親子を面倒見ることは出来ねぇ。美葉との仲もややこしくなるしな。子供がいる以上、そこらに放り出すわけにも行かないから、離れに住まわせてやりたいんだ。しばらくの間だけで良いからさ。」
両手を合わせて、拝むように頭を下げた。うーん、と伸也が唸る。
「私は反対だね。」
空気を冷やすような冷たい声音で文子が言った。健太は眉を寄せる。農園帽の下から覗くつるりとした額に届くほど、眉間の皺がきつく寄せられている。小柄ながら父親がたじろぐほどの存在感を放つ母が、次にどんな言葉を投げるのか大体の予測が付く。
「そんな、どこの馬の骨か分からない人間に、敷地内をうろうろされたらたまったもんじゃない。」
予想通りの言葉に、健太は嘆息する。
「どこの馬の骨ってさ。正人の元嫁だって、言ってんじゃん。」
「正人だって、得体の知れない人間じゃないか。いきなり現われて、廃校に住み着くなんて堅気のする事じゃないね。」
健太はムッと口を曲げた。
この地に住み着いて8年になる人間を、得体の知れない人間だという。それも、多少なりとも恩ある人間に対して。
伸也は重度の糖尿病で、健太が高校三年になる冬の終わりに左足を切断している。意気消沈していた伸也のために正人は椅子を作った。そのお陰で伸也はもう一度働く気力を取り戻したのだ。今片桐農園があるのは、正人のお陰だと言っても良いくらいだ。
だが、文子はそれを認めようとしない。
血統意識が強く、よそ者を受け入れない頑なな気質に辟易とする。伸也とはよく口喧嘩をするが、その分親子仲は良い。文子は粘り強くて大人しく影で夫を支える嫁の鏡のような人間だ。農地を守る嫁として姑からしつけられたと思われる頑なな価値観を健太は好きになれず、大人になるにつれ母親の事が苦手になっていった。
「だからって、放り出すわけにもいかんべさ。離れは健太の持ちもんだ。好きにさせてやれ。」
あっけらかんと伸也が言う。文子は夫の意見に反対することは滅多と無い。不服そうな一瞥を夫に投げてから、肩をすくめる。
「家の土地で何かしでかしたら、すぐにでも出て行って貰うよ。」
そう吐き捨て、小さく首を横に振りながらビニールハウスから出て行った。
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