月の声
稲苗の準備は深夜に及び、風呂を上がったのは日をまたぐ時間だった。明日も早くから仕事なのだが、あまりに綺麗な満月だったので缶ビールを片手に外に出た。今日は確かスーパームーンだ。月の軌道の地球への最接近と満月が重なる日。いつもよりも月が大きく見えるのだ。
微かな風に蕗の葉が揺れている。透き通るような月明かりはその姿をくっきりと浮かび上がらせていた。ふと離れの方に目を向けると、玄関口でアキが空を見上げていた。
祈りを捧げるように、両手を胸の前で組み合わせている。
「まだ、起きてたのかい?」
近付いて声を掛けると、アキはびくりと身体を震わせた。昼間と同じジーンズ姿だった。そう言えば、部屋着の類いすら無いはずだ。明日、生活に必要な物を揃えてやらなければならない。
「眠れなかったので……。」
月明かりはアキの頬を一層白く見せていた。
「……大変な一日だったもんな。猛は?」
「寝ています。」
短い言葉だったが、昼間のような機械的な声では無い。その声には息子を愛おしむようなぬくもりがある。
今朝方の選択は、愛する息子を生かすためにたった一つ残された手段を実行したに過ぎなかった。その事を改めて感じ取り、この女性が今生きて目の前にいることに胸が締め付けられた。
アキの胸に組まれた両手を見つめる。その指は細く、まるで骨の上に直接皮を張り付けたようだ。見つめていると、アキが問いかけるように首を傾げた。
「月に願い事でもしてんのかい?」
照れくさくなり、ふいと目をそらして茶化した。アキは月を見上げた。顎先の影が喉仏を隠す。微かな風がおかっぱの髪を揺らしている。
「月の声を聞いたことがあって……。」
月を見つめたまま、消えそうな声で呟く。
「月の声……?」
鸚鵡返しに問いかけると、アキははっと息を吐き、恥じ入るように目を伏せた。
「……すいません。気持ち悪いことを言いました……。」
「いや、そんなこと無いぜ。」
健太は慌てて否定する。
「自然相手に仕事をしてるとさ、いろんな物に命があるって感じるんだ。俺はどっちかって言うとお天道様の方が身近だが。日差しに感謝することもあれば、雨続きで顔を出さないことに恨み節をぶつけることもある。しゃべれるんなら直接交渉してみたいぜ。」
農作物にも雑草にも、雨にも風にも、心があるように感じている。だから、アキの言葉を一欠片も奇妙に感じはしなかった。
「月は、なんて言ったんだい?」
アキは驚きの視線を健太に向けた。切れ長の目の中で丸い瞳が揺れている。
「……『諦めないで。必ず幸せになれるから。』そう、言ってくれました。今日みたいな、綺麗な満月の夜。」
そう言って、空を見上げる。こちらに迫ってきそうな明るい月を、健太も見上げた。
「『諦めないで、必ず幸せになれるから』か。……月の声って、女の声かい?」
「はい。女性の声でした。」
月の声は、アキの願望なのかも知れない。健太はそう思ったが、口には出さなかった。もしもアキがその言葉に希望を繋いでいるのならば、そっと大事にしてやらなければと思った。
「……諦めないで、生きてきました。でも、幸せにはまだほど遠いです。きっと、一生手にすることなんて、無いと思います。」
アキの呟きは力が無かった。まるで月を掴むのが無理なのと同じくらい、幸せが自分に訪れることはないと信じ切っているようだ。針で刺されたように、チクリと胸が痛む。健太はアキに向かって大きく首を横に振った。
「幸せは、プレゼントみたいにやってくるもんじゃないぜ。」
アキが不思議そうな視線を投げる。その視線を受け止めながら、健太は自分の胸に手の平を置いた。
「幸せは、自分の心の中にあるんだ。」
アキの唇から、はっと息が漏れた。
「自分の、心の中……?」
アキの手が、恐る恐る自分の胸に触れる。健太は大きく頷いた。
「自分の心の中にある幸せに、気付けるようになったら良いな。」
「自分の心の中にある幸せ……。」
目を伏せて、噛みしめるように呟く。その唇が、僅かに綻んだ。
白い頬に、小さなエクボが浮ぶ。
健太ははっと息を飲み、月光に照らされた頬を見つめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます