生き直す

 翌朝、健太は茶封筒を持って離れに向かった。


 「明日から、アキには野々村って人の農場で働いて欲しいんだ。稲の収穫が終わるまでの間、住み込みの契約社員として。月給は家賃込みの18万円で社会保険も完備。条件は悪くないベ?」


 居住まいを正して健太の話を聞いていたアキは、ぽかんと口を開けた。

 「……住み込みの、契約社員?18万円も?私、農業なんてやったこと無いのに。」


 不安げな顔を向けたアキに、健太はにっと笑った。

 「そんな難しい仕事じゃ無いから大丈夫さ。波子さんっていう超優しいおばさんが居るから、教えて貰いながらやればいい。」


 「……できるかな……。」


 なおもアキは不安気に瞳を伏せた。健太は大きく頷いて見せた。

 「大丈夫だって。死ぬ気があんなら何だって出来るベさ。しっかり働いて、金貯めて、稲の収穫が終わったら好きな場所で猛と暮らしたらいい。仕事や住居の保証人くらい、俺がなってやる。もう一回、前向いて生きていきな。」


 アキは健太を見つめた。見開いた瞳が大きく揺れ、すぅっと一筋頬に滴が伝う。窓から差し込む朝の光が、その涙に光を与えた。


 母をいじめたと思ったのか、猛が健太を睨み付けた。健太は慌てて、猛に向かって両手を振った。

 「いじめたんじゃ無いぜ、猛。誤解だ誤解。」

 アキはふふっと微笑み、猛の頭を撫でた。

 「お母さん、嬉しくて泣いているのよ。この人が、とても親切にしてくれたから。」


 アキの頬にできたエクボに健太は目を奪われる。頬に熱を感じ、隠すように下を向いてポケットを探った。アキに今朝悠人から受け取った雇用契約書を見せる。


 「んじゃ、ここにサインして。」

 差し出されたボールペンを握り、アキが名前を書く。細くて、子供のように癖のある字だ。


 『木全アキ』

 健太は心の中でその文字を読んだ。


 「アキって、カタカナなんだな。どんな漢字なのかって考えてたんだけど。」

 何気なく言った言葉に、アキは小さく眉をひそめた。


 「秋に産まれたから『アキ』。漢字を考えるのも面倒だったんじゃ無いかな。」

 アキにとっては、名前さえも自分の存在を否定する材料らしかった。健太はチクリと胸がうずくのを感じながら、おどけるように首を傾けた。


 「俺は、季節の中で秋が一番好きだぜ。」


 え、とアキは驚いた顔をした。その顔に笑みを向けて健太は続ける。


 「農家にとって、秋は一年の集大成の季節さ。雪解けの時期から頑張って頑張って作物を育ててさ、その苦労が実るのが秋だ。……アキ。俺にとっては、実りの集大成みたいに聞こえる。いい名だと思うぜ。」


 アキは頬を赤らめて俯いた。

 「ありがとう、ございます。」

 その視線の先に、健太は茶封筒を滑り込ませる。


 「じゃ、野々村農園は給料前払い制なんで。これで、生活に必要なものを揃えに行こうか。後、猛の学校の手続きとか。ついでに、町も案内してやる。あ……、そう言えば、アキはここには自転車で来たんだよな。それ、どうした?」


 あ、とアキは目を見開いた。


 「橋のそばに置きっぱなし……。」

 「じゃあ、その自転車取りに行って、役所行って、その後買い物だな。」

 にこりと笑った健太を見つめるアキの瞳にみるみる涙が盛り上がり、ぽろぽろと溢れた。


 「ありがとうございます。」

 息を吐きながらそう言い、アキはちゃぶ台に頭がぶつかるほど頭を下げた。猛が、心配そうに母を見つめる。


 「……うれし涙?」

 顔をのぞき込んで問いかけると、アキはその身体を抱きしめた。


 「そうよ……。お母さん、もう、嬉しい時にしか泣かない……。」

 健太の胸にじんと熱いものが込み上げてくる。


 この親子を、俺が守る。

 強くそう思いながら、朝日の中の親子を見つめた。

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