第四章 拗れていく心

トラウマ-1

 ナースコールが鳴り病室に駆けつけると、初老の男性が点滴のパックを指さした。


 「点滴、もう終わりそうなんだけど。」

 透明のパックは厚みが無くなり、底の方に僅かに透明の液体が残るだけだった。佳音は頷いた。


 「新しいのと、取り替えますね。」

 「えー、まだ点滴取れないのかい。」

 不服そうな声を上げる男性に、佳音はわざと意地悪い顔をした。


 「早く良くなるための点滴です。もう少し我慢してくださいな。」

 「これがあったら、売店にも行けやしない。」


 溜息をつく男性に、佳音は目配せをした。


 「引っかけないように気をつけてくだされば、売店に行くのは構いませんよ。ただし、お菓子を買って食べたりしたら駄目です。病院食以外まだ禁止ですから。」

 「厳しーなー。」

 唇を尖らせる男性に、佳音は微笑みを向ける。


 「もう少しの我慢です。明日採血して、結果が良ければ点滴は終了ですから。」


 そう言い残して病室を出ると急ぎ足でナースステーションに向かう。六ヶ月になるお腹のせいで身体が重いが、もたもたして良い仕事では無い。ナースステーションに着くときゅっと腹部が痛んだ。動けば腹が張るのは当然だと言い聞かせ、息を吐きながら腹部をさする。


 「栄田さん、お腹張ってるの?」


 背後から看護師長の佐々木が声を掛ける。佳音は笑顔で振り返った。六十歳を過ぎたばかりの佐々木師長は柔らかな視線を佳音に向けていた。


 「少しだけ。でも、大丈夫です。302号室の高橋さんの点滴、交換しないといけないので。」

 「ダメダメ。無理しないの。私が行くから、張りが落ち着くまで休みなさい。」

 佐々木師長は点滴のパックを佳音の手から取り上げ、休憩室の方に背中を押した。


 「……すいません。では、少しだけ……。」


 佳音は頭を下げ、休憩室の中に入った。休憩室は絨毯が敷かれており、床に座って食事や休憩を取る仕様になっている。佳音は壁にもたれて足を伸ばした。


 どうしても、足を引っ張ってしまう。看護師になって三年目。やっと人並みに働けるようになったのに妊娠してしまった。只でさえ夜勤が出来なくなった分先輩達にしわ寄せが行ったのに、こうやって気を遣わせてしまうのが申し訳ない。


 「あの子、ちょっと迷惑よね。」

 先輩看護師の囁き声が耳に入る。


 「栄田さん?」


 話し相手が自分の名を呼び、心臓が飛び跳ねる。


 「そうそう。あの鈍臭い子。仕事覚えるのも遅いし、やっと使えるようになったと思ったら妊娠だってさ。」


 「まぁ、看護師として一人前になろうと思ったら、妊娠のタイミングは今じゃ無いよね。」


 「その前はさ、突然辞めるって騒いで仕事に来なくなるしさ。知ってる?親が電話してきたらしいよ。みっともないよね。」


 「そうなんだ。それはイタイねー。」


 「だよねー。でさ、小野寺師長、急に辞めたじゃ無い?どうやら、あの子が原因らしいよ。」


 「何々?どういう事?」


 「実は付き合ってたらしいの。部下に手を出したから、辞めさせられたんじゃ無い?」


 「えー。そんな事で辞めさせる?」


 「辞めさせるんなら、あの子の方にしたら良かったのに。小野寺師長、仕事できるしさ、格好良いしさ。」


 「ちょっとー。焼き餅焼いてるんでしょう。あんたさ、小野寺師長に気に入られてたもんね。」


 「そうなのー。憧れてたのよー。でもあの子が入ってきてからさ、小野寺師長あの子につきっきりになったじゃん。あんな重大ミス犯したから、師長直々にプリセプターする羽目になってさ。きっとあの子、師長を誘惑したんだわ。結構男癖悪いんだよ、あの子。師長と別れた途端に別の男の子供妊娠しちゃってさー。見境無いよね。男だったら、誰でもいいんじゃない?」


 二人の笑い声が響く。


 『小野寺』


 その名を聞いた途端背筋が寒くなり、身体がガクガクと震えだした。

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