トラウマ-2

 去年までこの病棟の師長をしていた小野寺と、佳音は付き合っていた。小野寺は病棟では優しく優秀で人望が厚かった。しかし、実は支配欲が強く、残虐な性質を持った人間だった。


 『手際が悪い、判断が遅い、ケアレスミスが多い、看護師としては致命的だ』


 小野寺の声が鼓膜の奥に蘇る。思わず両耳を多い、頭を振る。


 その言葉で心を洗脳し、暴力で支配した男の声が耳の奥に繰り返される。殴打された場所に痛みが走り、恐怖が蘇る。


 「おしゃべりしてないで、仕事しなさい。」

 看護師長の厳しい声が響いた。そのまま足音が近付いてくる。

 「栄田さん、落ち着いた?」

 靴を脱いで休憩室に入ってきた佐々木師長は、佳音の顔をのぞき込んで眉根を寄せた。そのまま佳音の隣に座り、肩を抱きしめる。


 「……あの二人の話、聞こえたのね。」

 佳音は声を出せず、辛うじて頷いた。何故こんなにも身体が震えるのか、不思議だった。今までも軽いフラッシュバックは起っていたが、仕事に支障を来すほどでは無かったはずだ。


 「気にしないのよ、小林さんはあなたに悪意を持っているの。だから、色々な事を言いふらしているのよ。そんな人の言う事など、誰も真に受けたりしないわ。」

 「……悪意?」

 佳音は疑問の言葉を、吐く息と共に何とか外に出した。佐々木師長が頷く。


 「小林さんは、小野寺さんの最初のターゲットだったのよ。彼女が人の悪口を触れ回るのは、きっと弱さ故の事。小野寺は、付け入る隙を持つ人間を見付けるのが上手い。だけど、あなたが入職してターゲットをあなたに切り替えたの。……だって、あなたの方が可愛いもの。」


 佐々木師長は佳音の顔をのぞき込み、悪戯っぽく笑った。


 「皮肉なことに、小林さんはあなたのお陰で酷い目に遭わずに済んだ。だけど、真実を知らないからあなたに小野寺さんを盗られたと逆恨みしているの。」


 佐々木師長は肩をすくめる。


 「小野寺さんの件は、表沙汰にしたくない院長から箝口令が出ているわ。だから、看護部長と私以外真相を知る者は居ない。……小林さんには、職場の雰囲気が悪くなるので人の悪口は言わないように注意しておくわ。あなたは何も悪いことはしていないのだから、堂々としていなさいね。」


 「……はい。」


 身体の震えは幾分収まり、佳音は感謝を込めて頷いた。腹部の張りも治まっている。


 「ありがとうございます。仕事に戻ります。」


 立ち上がろうとするのを、佐々木師長は肩に回した手に力を込めて引き留めた。


 「今日は、もう帰りなさい。身体がまだ震えているわ。これでは仕事に支障を来す。最近有給もとっていないでしょう?妊娠だって、悪いことをしているわけじゃ無いの。働き続けるためには、無理をしないで上手に休みを取らなくちゃ。」

 申し訳なさに返答できないでいると、佐々木師長は部屋の片隅においてある佳音の鞄を手に取り押しつけてきた。


 「さ、帰った帰った。」

 そう言いながら立ち上がり、微笑みを向けてから休憩室を後にした。


 佳音は入り口に向かって頭を下げた。


 また迷惑を掛けてしまう。そう思うと居たたまれない気持ちになった。

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