足手まといになりたくない
情けない気持ちで家に帰る。マンションのドアを開けようとして、ふわりと漂うカレーの匂いに気付いた。試しに鍵を開けずに捻ったドアノブは、すんなりと回った。錬が既に帰宅して、夕食の準備をしているのだと推測した。
玄関に入るとすぐにキッチンがある。錬はそこで鼻歌を歌いながらカレーの鍋をかき混ぜていた。
「あれ、佳音、今日は早いな。」
にっこりと笑顔を見せる。それから、ひょろ長い身体を折り曲げて佳音の顔をのぞき込んできた。
「なんだか顔色悪いんじゃ無いか?」
心配を掛けないように、佳音は笑顔を作った。
「ちょっとお腹が張ったから、今日は早く帰らせて貰ったの。」
そう言うと、たちまち錬の顔が心配で曇る。慌てて近付いて来て、額に手を当てる。
「熱は無いって。」
思わず笑ってしまう。
「もう落ち着いたから。」
靴を脱いで中に入ると、ベランダに干してあるはずの洗濯物が無いことに気付く。佳音の視線を読んだ錬が、得意げに腰に手を当てた。
「洗濯物も畳んだし、晩ご飯も準備オッケー。佳音は安心して横になってな。」
嬉しいはずの錬の優しさは、佳音の心を曇らせた。佳音は自慢気に鼻を天井に向けている錬の顔を見上げる。
「錬こそ、今日はどうしたの?仕事は?」
「へ?終わったよ。今日は早番だし。」
パン職人の錬が働く店はシフト制で、早番は早朝に出勤して昼過ぎには仕事を終える。しかし、開業を目指している錬は、早番の日でも閉店まで居残ることが多い。閉店後に新作のパンの試作や酵母の研究などを行なっている。パンの修行に没頭すると時間があっという間に経過してしまうらしい。日が明るいうちに家に居ることなど、滅多と無いのだ。
佳音の疑問を察したのか、錬は坊主頭をさすった。
「これからは、できるだけ早く仕事から帰るよ。看護師の仕事も大変なのに、家事も佳音に任せきりじゃ父親失格だよな。」
錬の言葉は、佳音の気持ちをぐちゃぐちゃとかき混ぜた。
「何よ、急に。」
不満を露にした声でそう言ってしまう。
「ごめんな、今まで気付かなくて。昨日、パートのおばさんに怒られたのさ。身重の奥さんをもう少し労れって。」
「余計なお世話だよ。」
佳音はそう吐き捨てて錬の横を通り過ぎた。
「佳音?」
不機嫌な妻の言葉に気分を害すことも無く、錬はのんびりとした声で名を呼んで付いて来る。いつもは錬に名を呼ばれると何となく嬉しくなるのに、今日は苛立ちが募る。
「仕事と家事の両立くらい出来るから!他の人が皆出来ていることなんだから私にだって出来る!錬も私が要領が悪いと思ってるんだ!鈍臭くて、何やらせても駄目だって、思ってるんでしょ!?」
叩き付けるように捲し立てながら、スプリングコートをハンガーに掛ける。錬がオロオロしているのが視界の端に映る。嫌な気持ちに拍車が掛かるのは、労ってくれる錬に対して八つ当たりする自分が嫌だからだ。錬が怒ってくれたらまだ気持ちは楽なのだが、必死で妻が気持ちを尖らせている原因を探ろうとしている。佳音は錬に背を向けてベッドに横になり、布団を頭から被った。
涙が頬を伝う。
職場でも迷惑を掛けて、錬にも心配を掛けて、それなのに八つ当たりをしてしまう自分が情けなかった。
『要領が悪い、判断が遅い、ケアレスミスが多い。』
自分を罵る小野寺の声が耳に蘇り、身体が震える。布団の端をぎゅっと握りしめる。
「佳音。佳音が鈍臭いとか、駄目だとかそんなことは思ってないぞ。」
布団の中の異変に錬は気付かないようで、布団の上から頭をポンポンと叩いてきた。
「佳音は凄いなぁって、いつも思っているし、感謝もしてる。仕事が終わってから家事も全部やって、美味い飯も作ってくれて、帰りが遅い俺に付き合ってご飯食べるの待っててくれて。」
布団超しに錬の手のぬくもりを感じ、耳に繰り返される声が消えていく。
「俺、佳音にちょっと甘えすぎてたなぁ。こんなんじゃ、店持ってからもっと佳音に迷惑掛けちまう。」
迷惑を掛けているのは、自分の方だ。
夢を追いかける錬の足手まといになりたくないのに。自分がもっとテキパキとしていて、余裕があるように見えていたら、錬が気を遣うことも無かっただろうに。
不甲斐なさにまた涙が溢れてくる。
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