喧嘩別れ-1

 京都のマンションは荷物があらかた段ボールに納められていて、がらんとした空間が余計に哀しい気持ちにさせた。戻ってきてしまったことを後悔したが、実家に居るのも気まずい。自分がいるせいで正人が食事をしに来られないのも、来て気まずい空気を味わうのも嫌だった。世界中に自分の居場所がなくなったように感じて、フローリングの床に膝を抱える。


 6月末まで会社に籍を置くものの、4月末で事実上退社した事になっていた。しかし、6月末にある物件の引き渡しにどうしても同席したかった。美容院の新店舗なのだが、オーナーとは新人の頃からの付き合いで、新しい店を出す度にデザインを依頼してくれた。自分を育ててくれた恩人の一人なので、引き渡しに顔を出して今までの礼を言いたかったのだ。


 その時には、正人も一緒に京都に来て、何日か京都観光した後引っ越しを手伝って貰う事になっていた。


 「なんで、こんな事になったの?」

 美葉は仰向けになり、天井を仰いだ。


 電車や飛行機を乗り継いでいる間に頭は冷静さを取り戻し、一連の出来事を整理する事が出来た。


 正人は当別に来る前に結婚をしていて、二人の間に子供が居た。正人が後生大事に旭川から抱えてきた椅子は、元妻のために作られた物だった。正人は結婚していたことも、子供が居ることも美葉に内緒にしていた。


 「内緒にしていたのは、多分悪気は無いんだよね。」


 天井に向かって呟く。


 自分に都合が悪いからと言って、嘘をついたり誤魔化したり出来るような人では無い。だから、単純に結婚を前提として付き合っている相手に離婚歴があることを伝えるのは常識だという認識が無かったのだろう。


 「だからさ、そこは案外腹が立たないのよ。」


 うんうんと、頷く。


 「でも、子供の事、気にならなかったのかな。」 


 相手の浮気が離婚の原因だと健太から聞いてはいたが、自分の子供のことを相手に任せ、忘れて生きることが出来る人だろうか。今まで正人の言動に子供の存在を匂わせるエピソードは見当たらない。隠し事が出来るような人では無いから、幼い桃花の相手をしていたらポロリと子供のことが口をついて出てくるはずだ。


 自分が知る誰よりも、正人は優しい人だ。そもそも幼い子供が居るのに、離婚することなどあり得ないのでは無いか?


 自分が信じていた「木全正人」という人物は、本当は冷たい人なのかも知れない。


 「そんなこと、ありえる?」


 冷徹な内面を隠して表面上善良な人の振りをするような器用な人間では無い、はずだ。自分は、そんな不器用な優しさが好きなのだから。


 「でも、実はずっと、元奥さんのことを想っていたとしたら?」


 そう呟いて胸がぎゅっと痛くなり、思わず身体を丸めた。胎児になったようだとふと思う。


 佳音の膨らんできた腹部を思い出した。

 「あの中に、入りたい……。」

 世界一安全で、温かな場所に入って守って貰いたい。


 しかしそれは叶うはずの無い現実逃避だ。正人とこの問題を解決するべく話し合わなければならない。これから先の未来を共に生きるために、乗り越えなければならないことなのだから。


 そう思うと、自然と笑いが込み上げてきた。


 こんなに酷い目に遭っても、自分は無条件に正人との未来を望んでいるのだと知って。


 身体をほどいて、もう一度天井を見る。


 「だって、好きなんだもん。」


 手を翳した先に、正人の肩に頬を付けて見上げた宿直室の天井が見える。あの、幸せしか感じなかった時間に戻りたい。


 「迎えに来てくれないかなぁ……。」


 そしたら、とりあえず何もかも許せるような気がした。


 しんとした空気を、スマートフォンの着信音が揺らした。美葉は身体を起こし、鞄の中からスマートフォンをとりだした。


 正人の名前が画面に映る。

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