喧嘩別れ-2

 しんとした空気を、スマートフォンの着信音が揺らした。美葉は身体を起こし、鞄の中からスマートフォンをとりだした。


 正人の名前が画面に映る。


 はっと息を飲んだまま、身体を動かすことが出来なかった。電話は留守番電話に切り替わる。どうしよう、と思っていたら、正人の頼りない声が聞こえた。


 「美葉さーん。ごめんなさーい。ゆるしてくださーい。美葉さーん。」


 「何に対する謝罪?」

 反射的に、電話に出てしまった。そして、自分の声の不機嫌さに驚く。


 「み、みみ、美葉さん!?」

 慌てふためく正人の声が聞こえる。


 「そうですけど。」


 電話口で正人が息を飲んだのが分かる。美葉は電話を耳に押し当てたまま、正人の言葉を待った。しかし、オロオロする気配が耳に漏れてくるばかりで、声は一向に聞こえてこない。


 「何かご用?」


 突き放すような言葉を吐いてしまう。口だけ別の生き物に乗っ取られて勝手に動いているみたいだ。


 「あ、あうう……。」

 おかしなうめき声が聞こえる。正人に聞こえるように、溜息をついた。


 「用がないなら、切るけど。」

 「あー!だめ!」

 悲鳴のような叫び声と、動揺した息遣いが聞こえる。あたふたして、きっと手足をバタバタ余分に動かしているのだろうなと想像し、おかしくなる。


 「要件は何?」


 それなのに、口だけがイライラした声を発する。


 「ごごご、ごめんなさい!」 

 絶対に今、身体が二つに折れるくらい頭を下げた。


 「何に対して。」

 頭の中に浮かぶ正人の姿に愛しさを感じているのに、口は冷たい声で突き放す。


 「けけ、結婚していたことを黙っていて、すいませんでした!」


 まず、そこからか。


 「なんで黙ってたの?バレなきゃ良いって思ったの?」

 そんなこと、思うはず無いのに。頭のどこか一部だけが冷静に、自分の言葉を否定している。


 「いえ、言わなければいけないことだと認識していませんでした。自分にとってはもう済んだことだったので、敢えて言う必要は無いと……。でも、世間一般の常識では、離婚歴があることを伝えた上で結婚の申し込みをするものだと錬君からお叱りを受けました……。」


 予想通りの回答だった。正人にとって結婚はもう済んだことなのだと聞いて安堵する。


 「んで!?」


 それなのに、言葉はとげを増していく。


 「ん、んで……?」


 鸚鵡返しをされて、聞こえるように舌打ちをした。はああ、と情けない声が聞こえる。


 「どうすんのよ、これから!元奥さんとよりでも戻すの!?」

 「も、戻しません!そんなつもり全くありません!」

 「じゃあ、子供はどうすんの。よく今まで放っておけたよね。人でなし!」

 「…… し、知らなかったんですよ。こ、子供が居た、なんて……。」


 ぶちっと、頭の中で何かがちぎれる音がした。


 正人が、嘘をついた。


 「……嘘つき。」

 心と口が合致して低く冷たい声を出した。


 「う、嘘じゃありません!本当に知らなかったんです!」

 「嘘だ!スケッチブックに妊婦姿のあの人の絵を描いてたじゃん!知らないはず無いでしょう!?」


 電話口で、正人が息を飲んだ。


 正人が、嘘をついて誤魔化そうとした。

 信じていた正人という人格がガラガラと崩れていく。心が冷え切っていくのが分かる。


 電話口に居るのは、大好きだった正人では無い。


 「説明してよ。奥さんとはどこでどうやって知り合って、どれくらい一緒に居てどうして分かれたのか。別れるときに子供についてどんな取り決めをしたのか。全部ちゃんと説明してくれないと、納得しない。」


 怒りはどこかに行き、酷く冷静な自分がいて、冷たい声でそう言っている。


 電話口で正人は長い息を吐いた。


 「……それは、できません。」


 正人の声も、冷静だった。その答えに耳を疑う。


 「できない?」

 「はい。」


 静かな声に揺さぶられたように心臓がドクドクと音を立てる。


 「……どうして?」

 さっきまで冷静だったのに、動揺して声が揺らいでいる。


 「彼女のことは、詳しく話せないんです。すいません。」

 立場が逆転したように、正人の声は落ち着いていた。そして冷たかった。


 「聞かないと、私が納得しないって言っても?」

 「はい、すいません。」


 カッと頭に血が昇った。


 「じゃあもういい!正人さんにはついて行けない!さようなら!」


 そう喚いて、通話ボタンを押した。


 その腕から力が抜ける。だらりと垂れた手からスマートフォンが落ちて床をならした。


 『喧嘩別れみたいな事しちゃ駄目だよ。あんた、気が強いから。』


 波子の声が耳に蘇る。


 「やっちゃったよ……。」

 そう呟いて、真っ黒になったスマートフォンの画面を眺める。

 

 

 

 

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