有給休暇を取り消すはずが
一連の話を佐緒里に相談すると、有給を取り消して仕事に出ておいでと言ってくれた。久しぶりに職場に顔を出すと、上機嫌な涼真が満面の笑みを浮かべて仁王立ちしていた。
「オルラム・サルマンがシュートを決めたね!これで勝負は振り出し!」
差し出された手に、渋々佐緒里が小さな紙を手渡した。その紙を涼真はひらりと美葉の前に翳した。
美葉の退職届だ。
「とりあえず、これは取り消しで。」
ビリビリと破く。
「嫌、取り消したのは有給で……。」
「でも、彼氏とはお別れしたんやろ?ほな、会社に残って欲しいなぁ。美葉ちゃんは我が社の優秀なデザイナーで、看板娘やもん。」
「……お別れは……。」
正直なところ、まだ正式に別れたとは思っていない。ちゃんと顔を見て話をすれば関係は修復できるはずだ。ただそうする前に頭を冷やす時間が欲しかっただけなのだが。
「彼氏と喧嘩別れしたからって、有給を取り消すような奴は信用できへん。今後おるかおらんか分からん奴に何の仕事させ言うんや?」
ぼそりと片倉が言う。それはもっともなことだと美葉も思う。
「片倉君もそう言っていることやし、ここはけじめを付けて、これまで通りしっかり働いてや。」
「でも……。」
「断る理由、ある?」
涼真は身体を少し折り曲げて、美葉の顔をのぞき込んできた。黒目がちな強い眼差しに飲み込まれそうになる。
「無い、です。」
降参するように、美葉は呟いた。涼真がにんまりと笑う。
「じゃあ、今度の日曜日、師匠に報告しに行きましょ。……ほな、僕は本社に戻りますよ。」
鼻歌のようにそう言って涼真はオフィスを出て行った。
その背中を見送り、ため息をつく。
「美葉さーん、私美葉さんが帰ってきてくれて率直に嬉しいです!美葉さんに仕事教えて貰いたいって思ってました!……彼氏さんのことは残念ですけど、美葉さんならもっといい男すぐ捕まりますって。あ、社長が狙ってるかな、もしかして。」
「私も!美葉さんは憧れの人なんですから!」
見奈美と一恵が両腕にしがみついてきた。
鼻の頭にあるそばかすがキュートな見奈美は、美葉が抜けた後デザイナーとして活躍するべく修行中である。美葉が卒業した通信制の美術学校で建築デザインを学びながら働く勤労学生だ。
そして、一恵もまた同じ大学にこの春から通っている。一恵はフローリングの商談をまとめる営業職だが、営業のノウハウを生かしたデザイナーになりたいと美葉が退職の意向を伝えるのと同時期に申し出たのだった。
本当はもう一人社員を雇うはずなのだが、誰が来ても涼真が首を縦に振らず、人員の補填が出来ていない。涼真はどこかで美葉がいつか退職の意向を取り消すのでは無いかと期待していたのかもしれない。
柱となるべき中堅どころの美葉が抜け、代わりとなるべき人材が育っていないスペースデザイン事業部は、危機的状況なのである。
――これまで育ててくれた職場に、恩返しをする時なのかも知れない。
正人との関係を修復して故郷に帰るとしても、有給を返上し、その間少しでも二人に仕事を教えたい。少し正人と距離を置き、頭を冷やすにも丁度いいのかも知れない。
美葉はぐっと腹に力を入れた。
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