さようならと言われて-1
健太は久しぶりに谷口商店でビールとつまみを買い、樹々を尋ねた。日はもうすっかり落ちているが、まだ丸みを帯びている月が正門代わりの低い塀や常に勤勉な二宮金次郎を照らしている。
工房が順調だった頃は、仕事終わりの一杯が日課だったが、それどころではなくなり中断したままだ。
あの騒動で美葉は京都にとんぼ返りしてしまった。アキが近所に住むことになったので気まずいかも知れないが、美葉と正人にはこの一件を乗り越えて仲良くやっていって欲しい。二人の親友として一肌でも二肌でも脱ぐ覚悟は出来ている。
そう思いながらショールームの扉を開けると、正人がカウンター席に座り、ぼんやりと外を眺めていた。これは、珍しい光景だ。
「正人。」
声を掛けても振り返る様子は無い。
そばに行くと、口をぽかんと開け、虚ろな視線を窓の外に向けていた。完全に魂が抜けている。悪戯心が湧き、数週間冷蔵庫でキンキンに冷やされ続けていたであろう銀色の缶を一本取り出した。白くやや痩けた頬に缶を押し当てると、正人は悲鳴を上げて立ち上がった。
「健太!驚かさないで普通に声を掛けてよ!」
「掛けたさ。お前が気付かないだけ。」
そう言いながら、正人にビールを手渡した。
芝生の校庭が月明かりに照らされていた。広い校庭だと思っていたが、改めて眺めてみるとたいしたことは無い。健太は正人の隣に座った。窓際の壁に沿うようにしつらえてある一枚板のカウンターテーブルに残りのビールを置き、スルメと柿ピーを広げる。
「アキと猛な、悠兄のところで稲刈りが終わるまで面倒見てもらうことになった。俺んちの離れに住まわせる。これで衣食住は確保できたから、安心しろ。」
正人は驚きの視線を向けてきた。そして、項垂れるように頭を下げた。
「……すいません。お世話になります。僕も、金銭的な援助はさせてもらいます。」
「何言ってんだ。水くせぇ。」
ビールを開けて、グビリと飲みながら、そういう言い方になるんだなと改めて思う。家族の片割れを助けて貰うことになるのだから、当たり前の反応なのだろうが、やはり違和感は拭えない。
「お前が金持ってねぇの知ってっから。余計な気を遣うな。……お前はあいつにあんま関わるなよ。美葉が焼き餅焼くだろうから。」
「彼女の方が、僕と関わり合いたくないと思ってるはずだよ。僕の方から彼女に会うことはない。」
力なく正人が言う。「会わない」ときっぱり言い切るのも無責任だと思い、健太は眉をひそめた。猛のことは気にならないのだろうか。元夫として、この状況に至った経緯に関心は無いのだろうか。
「アキとは、どこで会ったんだい?」
「えっと……。旭川。」
どうもよく分からない二人の関係性を確かめたかった。責め立てることにならないよう気を遣って野次馬的に問いかけてみたのだが、余りにもあさっての回答が返ってきてビールを吹き出しそうになった。
「それは分かっているけどさ。いい女じゃん。あんな女、どこで出会ってどうやって引っかけたんだよ。」
気を取り直して突っ込んで聞いてみる。はは、と正人は口先だけで笑った。継いで、ふいっと顔を背ける。
「……申し訳ないんだけど。アキのことはあまり聞かないで欲しい。」
顔を背けたまま、抑揚の無い声でそう言った。
「な、何で?」
想定外の反応に狼狽えてしまう。正人はこちらに背けたままの顔を歪める。彫りの深い眼差しに月が影を作っていて、妙に青白く見えた。
「……僕は、嘘や隠し事をするのが苦手で、何をどこまで言って良いのか判断するのも苦手で。――あの人は事情がある人だから、それにポロリと触れたら困る。」
「事情?」
正人は逃げるように立ち上がった。こちらに向けた背中は、不自然に肩が上がりぎゅっと拳を握りしめている。
アキの事情。
中学の頃に親と生き別れただけでも充分衝撃的なのに、まだ何かあるのだろうか。気になるが、正人の背中はそれ以上の追求を頑なに拒んでいた。しかし、「事情」を伏せたまま他人に面倒を見て貰うというのは、元夫として無責任ではないか。それに、肝心なことを伝えないままで美葉が納得できる筈がない。
「美葉に、連絡したかい?京都に戻っちまったんだろ?」
問いかけると、背中がびくりと揺れた。正人の両手が、さらにぎゅうっと固く握られ、血流を失い白くなっていく。
「……さようならと、言われたよ。」
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