死者の心は-1

 山荘の露天風呂は、大人が4人入れる岩風呂だった。湯は茶褐色のモール泉でぬめりがある。


 保志がこうやって誰かと風呂に入るのは、随分久しぶりだった。温めの湯に疲労が溶けていくのを感じてほうっと息をつく。


 正人は、茶褐色の湯に白い身体を沈め、俯いていた。仁の話の余韻に浸っているのだろう。


 保志からすれば、仁はただの意気地無しで、好きな女を手に入れることが出来なかった駄目男に過ぎない。その恋バナは、正人の行く末を暗示するように思えて怖気が走る。あまり、感心して貰いたくはない。


 「正人、お前最近飯はどないしてるんや?和夫さんとこ、まだ世話になってんか?」

 気持ちを現実に向けるため、現実的な話をする。え、と正人は目を上げた。


 「親父さんのところには、流石に行ってません。」

 正人は首を横に振った。


 「美葉さんとお別れした翌日に、豚汁を作りました。そして、これまでお世話になったお礼と、美葉さんを傷つけてしまったことの謝罪をしました。親父さんは、僕が家に出入りするかどうかは自分と僕との関係性なのだから、気にせず今まで通り来ればいいと言ってくれました。でも、そういう訳には行きません。」


 寂しげに視線を伏せた後、無理矢理付けたような笑みを浮かべる。


 「リサイクルショップで冷蔵庫、買いました。ワンドアの小さいものですけど。大学の学生さんが使っていたものだそうです。簡単なものしか作りませんけど、自炊しています。お風呂は、滝之湯に行っています。洗濯は江別のコインランドリーに週に一回しに行っています。下着や靴下は毎日手洗いしています。……いずれは、町中のどこか安い部屋を借りられたらと思っています。それが、今の目標ですね。」


 「そうか。割と堅実にやってるやないか。」


 「……すぐに、生活が乱れます。毎日、気持ちを引き締めて、決まった時間に起きて、決まった時間に食事をして、決まった時間に寝ています。それだけでも、凄くエネルギーを消耗します。自分は本当にポンコツな人間で、駄目な人間で、嫌になります。」


 正人はふふふ、と小さく笑った。笑うなや、と思わず叱りたくなる。


 「駄目なとこも仰山あるけど、ええところもあるで?正人には。」


 正人は小さく頭を振った。


 「今日かてそうや。お前が仁さんの言葉をじっくりと受け止めたから、心を開いてくれた。あんなん、そう誰にでも出来る話やない。お前やから話せたんや。お前の、人の心を受け止める力は誇ってええんやで。」


 柄にもなくふるった熱弁を、正人は悲し気な顔で否定した。震えるように小さく左右に振った後、その顎先を湯に沈める。


 「受け入れるという事しか、出来ないんですよ。僕は、誰かと喧嘩したことも無いし、議論したこともありません。喧嘩したことが無いので、仲直りも当然した事がありません。


お母さんとお爺さんは、常に温かく僕を受け入れてくれました。その二人から学んだ方法でしか人と対峙できません。そうできないときは、小さく丸まって逃げるんです。団子虫みたいに。とても平板な対人パターンしか、持ち合わせていないんです。」


 正人は確かに、人が人と交わりながら経験するべき事を何一つ学ばず大人になった。その事に劣等感を感じていることも、保志にはよく分かっている。

 だが、その正人も当別の地で生きるうちに学んだことがあるはずだ。そこで得たことに、もう少し気付いたらいいのだが。


 「でもね、経験が足りないことを悔やんだら、お母さんを責めることになるんです。だから、僕は駄目な自分を受け入れて、このまま生きていくしか無いでしょう?」


 正人は顎先を湯から上げ、薄く笑った。湯気の向こうの姿が、陽炎のように揺れた気がした。


 保志の胸が、ドキリと跳ねた。


 正人を見ていて、不安になった理由。「死」という言葉を遠ざけたくなる理由。それが今、分かった。


 正人は、生きようとしていない。

 積極的に死を求めもしない代わりに、生きることもやめてしまった。


 『樹々を続ける』


 その美葉との約束を守る事が今の正人の全てだ。喜びや悲しみ、野心や希望といった生々しいものを求める心を手放し、樹々を存続させるための営みを、淡々と続けている。


 なぜ、そうしてまで正人は、美葉と生きることを拒むのか。


 保志は、奥歯を噛みしめた。


 「……正人。」

 名を呼びながらも、続けるべき言葉が見つからない。正人は純粋な瞳をこちらに向ける。


 「今の姿を見て、お前のおかんは喜ぶやろうか?」

 何とか言葉をひねり出して伝える。

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