長い長い恋の話-2
綾の言葉と、嵐への恐怖がそうさせたのか。揺らぐ蝋燭の光の中で二人は自然に身体を重ねた。
翌朝綾は下山し、大人の秘め事が一つ出来ただけで、これからの人生を今までと変わらず生きていくはずだった。しかし、嵐は山小屋の周辺に甚大な被害を与えていた。土砂崩れと河の氾濫で、山小屋と町を繋ぐ道路は全て塞がれて陸の孤島となった。幸い、携帯電話の電波は辛うじて繋がったため、綾の家族に無事を伝えることは出来た。
嵐が去った晴天に小屋の周囲を散策した。折れた木もあったが、耐え忍んだ森は息を吹き返したように力強く山小屋の周囲に広がっている。綾は、小屋の左手に群生する銀泥に驚いた。あの時芽吹いた木々であると一目で気付いたようだった。こんな美しい木に育つとは、と感嘆の声を漏らした。
山小屋は嵐で至る所が傷んでいた。昼間、綾と共に山小屋を修復し、夜は蝋燭の光の下で愛を交わす。何時終わりが来るのか分からない蜜月を大切に大切に過ごした。
蜜月は一週間で終わった。
彼女は山を降り、現実の世界へ戻っていった。
数日後、手紙が来た。
「あなたの元へ行きたい。その気持ちが募って苦しいのです。」
そう、綴られていた。
仁はもう拒みはしなかった。しかし、奪いもしなかった。綾には家庭がある。その家庭を捨てるのかどうかの判断を、綾に任せた。綾は連れ去って欲しいと願っている。それは察していた。しかし大人の分別と意気地の無さがそれを許さず、決断を彼女に委ねるという卑怯極まりない手段を取ってしまった。綾は、娘が大学を出たら夫と離婚して仁の元へ行きたいと告げた。仁は勿論、受け入れた。
それからも手紙は届いた。昔のように頻繁にでは無い。内容も、娘について思うことや、日常にあった心を動かされた出来事を報告するような内容ばかりだった。
綾の娘が大学を卒業した。だが、綾は家庭を捨てなかった。
綾の夫が癌にかかり、闘病生活を始めたためだ。夫と綾は、おしどり夫婦と称されていた。夫は綾をとても愛し、大切にしてくれた。そんな人を、見捨てることは出来なかった。夫は五年、癌と闘い亡くなった。淡雪が降った三月のある日、四十九日を過ぎたらあなたの元へ行くという手紙が届いた。しかし、それきり手紙はもう届かなかった。
更に五年が過ぎた先月のこと。綾の娘が山小屋にやってきた。
手紙の入った缶と、綾の遺骨を持って。
夫が亡くなってすぐ、綾の頭に腫瘍が見つかった。取り出すことが出来ない場所に出来た、悪性の腫瘍だった。その腫瘍は三年の月日を掛けて綾を蝕み、身体の自由を奪い、人格を荒廃させていき、最後にゆっくりと命を奪ったのだという。
綾が亡くなってから、遺書が見つかった。
その遺書には、持ち家を更地にして売り、そのお金を娘がすべて得ると言うことと、遺灰をある山小屋の横に群生している銀泥の根元に撒いて欲しいと言うこと、クローゼットの中にある缶をその山小屋の主に渡して欲しいというものだった。
娘は山小屋の事を覚えていた。修学旅行の間に母が湯治に出かけていき、台風被害に遭った山小屋だ。そして娘は缶の中の手紙を読んだ。仁は、手紙が家族の目に触れることを恐れ、当たり障り無い表現を心がけていた。それでも、行間にある二人の想いは容易に想像が付いたという。
***
「娘さんは、悩まれたそうです。お母さんの遺言を果たすまでに二年、掛かったと言いました。」
仁は銀泥を見つめながらぽつりとそう言った。
正人は涙と鼻水を大量に流し、丸まった汚らしいタオルでそれを拭いていた。
「遺灰は、もう撒かれたのですか?」
正人の問いかけに仁は頷いた。
「ええ、綾は銀泥の下で眠っています。」
そう言って、正人の顔をまっすぐに見つめた。
「ただ、家の中にも居場所を作ってあげたいのです。そこに、たった一つだけ二人で積み重ねたものである往復書簡を仕舞っておきたいのです。」
正人は、湿った息を吐きながら応じた。
「分かりました。綾さんが落ち着いて過ごせる場所を、作らせていただきます。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます