社長の恋人-1

 京都の街に夕日が落ちる。


 涼真のマンションは高台にあり、例え5階という低層マンションであっても街並みを広く一望することが出来た。


 京都は景観を守る為建築基準が厳しい。高層の建物が無いため、都会の割には遠くまで景色を見渡すことが出来る。眼下には三角の瓦屋根が不規則に並び、左の端には法観寺の五重塔が荘厳な姿を見せていた。


 街並みに沈んでいく太陽が、それら全てに影を作っている。


 きっと、東の空には星が見えるはずだ。この時間の空ならば。

 だが、東側には窓が無く産まれたばかりの星空を眺めることは叶わない。


 当別の空はパノラマで、西を見れば夕焼けの名残を残すうす茜の空を見ることが出来たし、東に視線を移せば山陰に現われた星空を見ることが出来た。夕方と夜が入り交じる空が、一番好きだった。


 『不思議な空ですね。夕方と夜が混じってる。』


 いつだったか、正人とそんな空を見上げたことがあった。


 正人の吐く息がほっと白かったから、冬だったのだろう。そうだ、高校三年生の、冬の事だ。


 『美葉さんは、空にあるきれいなものを見付けるのが得意ですよね。』


 突然正人にそう言われ、ちょっと恥ずかしい気持ちになった。そんなにいつも空を見上げていただろうか。ぽかんと口を開けていたりしなかったかな。そう思ってちらっと正人を見ると、何故かとても寂しそうな顔をしていた。


 『端から端まで見える虹とか、大きな雲とか、白鳥とか。』


 正人は一緒に見た空をよく覚えていた。それが、無性に嬉しかった。だから、まだ見ていない綺麗な空を正人に教えてあげた。来年からずっと一緒にいるのだから、見付けたら教えてあげようと思っていた。


 『見てみたいですか?違う空。』


 急に問いかけてきた正人の声は震えていた。


 もしかしたら、正人は自分を京都に送り出したいと思っているのかな。


 正人の寂しそうな顔も、震える声も、ずっと側にいたいと願う心にはとても怖くて不安なものだった。だから、急いで家に帰ろうと急かした。継ぎ接ぎのようだけれど、温かくて安心できる、家族の家に。


 自分の頬に伝う涙の感触で、美葉は我に返った。


 涼真の部屋で夕食を作って待っていたが、急用が入って遅くなると連絡があった。時間を持て余して窓の外を眺めていた。


 涼真の彼女になって一月が過ぎた。だけど今も正人との思い出は不意に現われて心を支配していく。


 「お試し」という言葉が取れただけで、涼真の振るまいの何かが変わったわけでは無い。ただ、美葉の中で涼真のとの向き合い方が変わった。


 涼真は時間があれば食事に誘ってくれるし、休日は魅力的な場所へのデートを提案してくれる。しかし、共に過ごすうちに、その時間を多少なりとも無理をして捻出していること気付いた。


 「社長」という仕事はとても忙しいらしい。


 社長と社員だった頃、涼真が美葉と時間を過ごすために、会社の営業を利用したのも理解できるようになった。休日を純粋に自分の時間として使えることは、あまりないのだ。休日だけでは無い。社長の仕事はやろうとすればいくらでもあるらしいし、イレギュラーな事で突然自分の時間を奪われることもある。


 自然と美葉は涼真に自分の時間を合わせるようになった。


 帰宅が早そうだという連絡が入れば食事を作って帰りを待つ。休日に営業に同席することもある。美葉が入社した年から木寿屋の広告には美葉の写真が使われ、「看板娘」として営業に呼ばれることが多々あった。嫌々務めていたことを、進んでするようになっただけだ。


 そうすることが、「社長の恋人」の自分がするべき責務だと感じてる。


 36歳の会社社長は、そろそろ身を固めなくてはならない。その男と付き合うなら、のんびりと蜜月を楽しむ普通の付き合いを望むべきでは無い。この後進んでいくだろう「婚約者」として、ひいては「社長夫人」として自分はふさわしい存在なのか、自分自身を査定しなければならない。もしもふさわしくないのならば、恋人として隣に居座るべきでは無い。

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