社長の家-3
「二人の時は、社長って呼ばんといて。敬語もあんまり好きと違うな。」
「……じゃあ、なんて……。」
戸惑う視線を涼真は微笑みで受け止める。
「普通に、名前を呼んで。」
「く、九条さん?」
戸惑いながら美葉が言うと、涼真は吹き出すように笑った。
「彼氏やねんから、下の名前で呼んでぇや。」
笑ったまま、涼真は言った。急に恥ずかしくなり、美葉は俯いた。頭の中で涼真の名を呼んでみる。とたんに頬が熱くなった。
「涼真、さん。」
「はい、美葉。」
呼び捨てにされ、更に顔が熱くなる。
「美葉。」
涼真の手が、頬に触れた。ゆっくりと、顔を上に向ける。優しい微笑みが、美葉の視線を出迎える。
「美葉。」
涼真がもう一度名を呼んだ。
「美葉。」
呼ばれるたびに照れくさくなり、美葉は悲鳴を上げるように言った。
「もう、何度も呼ばないで。」
「だって、ずっとそう呼びたかってんもん。」
美葉の瞳は、涼真の瞳に引き寄せられて離せなくなる。
「美葉が好きで、好きでたまらんねん。」
涼真が立ち上がり、美葉に向かって身体を折り曲げる。顔が、ゆっくりと近付いてくる。少し首を傾けた涼真の唇を、美葉は自然に受け入れた。
***
涼真と過ごした時間は、幸せなものだと思う。この新しい幸せに、身を任せていけばいい。そうすれば正人を失って隙間だらけになった心は、きっと満たされていくはずだ。目覚まし時計に起こされて、シャワー室に駆け込んだ。まだ寝ぼけた頭で、そう考えていた。
浴室の鏡に、自分の身体が映る。左の鎖骨の下に、小さく赤い斑点を見付けた。涼真が付けたものだ。
その途端に、美葉の身体の内側から嫌悪感が湧き上がってきた。反射的にゴシゴシとタオルでこする。そんなことをしても消えるはずは無いのに。
この身体は、まだ正人のもののような気がした。それに、まるで自分のもののように付けられた印が汚らわしく思えた。
正人と涼真は、違っていた。
涼真は美葉の身体を操り、思うように反応するのを喜んでいるようだった。そんなことが出来るほど、涼真は手慣れていた。正人の、まだぎこちない優しいものとは、まるで違う。
正人が去って、ぽっかり空いたどす黒い空洞に、涼真が入り込む。でも、綺麗に穴は埋まらない。空いたところから、正人への想いが吹き出してくる。
美葉は、鏡に額を付けた。締め付けられた喉から悲鳴のような嗚咽が漏れる。
パソコンのデータを上書きするように、記憶が綺麗に上書きされたらいいのに。
心の上書きはそう上手くは行かない。あんなに楽しく満ち足りた時間を過ごしても、塗りつぶせない空洞から正人が現われてまたじわじわと心を戻していこうとする。
もう苦しめないでと心から閉め出そうとするけれど、甘美な痛みを求めるように、内側から触手が伸びて正人の姿を引っ張り出そうとする。
正人を忘れて涼真と生きようとする気持ちと、正人への未練が拮抗してどうしていいのかわからなくなる。
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