仕事に人生捧げます

 「北海道まで行っといて、成約ならずとは。この金食い虫。」

 向かいの席で片倉がブツブツと文句を言っている。


 「今回成約ならずでも、きっと十年後位に発注来ますって。そん時必ずリベンジしますから。」

 パソコンに向かい、ゼンノーの田中氏に事の顛末を知らせるメールを作成しながら美葉は答えた。


 「十年後なんて、どうせお前おらんやろ。」

 「いますよ。余裕でいます。私定年退職まで木寿屋で働きますから。何なら、嘱託職員として75歳くらいまで働いてやる。私、正式に彼と別れてきたんで。仕事に生きる女になります。」


 言葉を吐き終えた途端シンと空気が冷え、全員の視線が美葉に向けられる。その視線に美葉は戸惑い思わず手を止めた。


 実は皆、自分の恋の行く末を応援してくれていたのだと気付いた。退職すると言っていなくなり、喧嘩別れしたと言って戻ってくるような勝手な事をしたのに。少数精鋭の職場にとって美葉が抜ける穴はとてつもなく大きいはずだった。それでも、美葉の恋が実り送り出すことを願ってくれていた。


 涙が出そうになり、キーボードを叩く手に力を込める。


 この恩は、仕事で返す。

 そう心に誓う。


 ガチャリと音を立て、オフィスのドアが開いた。

 ブリオーニのスーツを着た涼真が涼やかな笑顔で入ってくる。


 「何です?エアコン入れてないのに、このひんやりした空気。」

 涼真を見上げた佐緒里の視線はこの空気よりも冷ややかだった。


 「美葉から仕事の報告を受けていただけです。今回のゼンノーから受けたリフォームは成約ならず。出張費の回収が出来ませんでした。」

 「出張?美葉ちゃん、どっか出張行ってましたっけ?」


 怪訝な顔で涼真は首を傾ける。当然のことながら涼真には北海道への出張は事後報告する事になっていた。行き先が家具工房樹々だと知れば、黙って美葉を送り出すはずが無い。


 「あれ、伺い書まだ社長に届いていませんか?」

 しれっと佐緒里がそう言った。

 「届いてませんね。」

 涼真が投げる疑惑の視線を佐緒里はさらりと受け流す。


 「近藤様はキッチンを家具工房樹々に頼みたいという意向を示していらっしゃったので、その打ち合わせに行っておりました。しかし、今回のリフォームは一旦見合わせるという結論になりました。」

 涼真の顔が、見る見る険しくなっていく。佐緒里は全く意に介さずと言う様子で言葉を続ける。


 「ただ、先方は我が社を気に入って下さっているので時期が来たら再発注が来ることは期待できます。その時は美葉が直々に担当します。以上です。」


 涼真の眉間の皺はあっけないほど一瞬で消えて無くなり、口角がみるみる持ち上がってくる。


 「ほんま!遠くまで出張お疲れ様でした!ほな、出張の慰労会しましょ、美葉ちゃん。」


 佐緒里が大きな咳払いをした。


 「社長。ここは職場ですから。社長だからと言って女性社員を食事に誘うのはセクハラやパワハラになる可能性がありますよ。それを堂々とやってのけるのはいかがなもんかと思いますけど。」

 「……いいですよ。」

 美葉は涼真の顔を見上げた。


 「どうせ社長のセクハラとパワハラは昨日今日始まった事ではないし。お断りする理由もありませんしね。」


 高飛車な返答だとは思うが、愛想良い顔を作るエネルギーは残っていない。木寿屋に骨を埋める以上、セクハラまがいのことはして欲しくない。その事をはっきり伝えようと思った。そんな美葉の気持ちを知らない涼真は心底嬉しそうな笑顔をむける。


 「じゃあ、お仕事終わったら迎えに行くね。」

 ひらひらと翳した涼真の手からムスクの香りがした。

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