洋酒の香り-2

 「何か、悲しいことがあったでしょ?」


 突然浴びせられた言葉に、狼狽える。


 「ちょっとずつ、分かってきたよ。涼真さんは、天邪鬼。悲しくても怒ってても笑うでしょ。でも、その後ろに隠れてる顔が、見えるようになってきた。」


 突然服を剥ぎ取られたように動揺し、鼓動が激しくなる。口元を緩ませ、瞳を細める。


 微笑んでいるように、見えるだろうか。


 「叶わんなぁ、美葉には……。」

 言葉の最後は、美葉の胸に包まれていた。突如伸ばされた腕が身体を包み、後頭部にあてがわれた手の平が、柔らかい力で上下する。


 「……え?」

 涼真は戸惑うような声を上げた。


 「慰めてあげる。」


 ささやくような声が耳たぶをくすぐる。この手の動きが、頭を撫でる行為だと随分遅れて理解する。生まれて初めての感覚に怯え、身体に力がこもる。しかし、美葉の手が、身体を包むぬくもりが、抗う気持ちを麻痺させていく。


 「……美葉は、こうやって慰めてもろたん?」

 「そうだね。皆、こうやってくれた。お母さんも、節子ばあちゃんも。親友も。」

 「ええなぁ。僕は、初めてや、こんなんしてもろたの。」

 「小さいときも?」

 「うん、小さいときも。」


 美葉の手にぎゅっと力が込められる。喉元が痛くなるが、理由がよく分からない。口角を上げる。感情を揺らさないように。しかし、頭を撫でる美葉の手はその抵抗を無力化しようとする。


 「悲しい事はね、人に話したら半分になるんだよ。何があったの?話してみて。」


 涼真は深く息を吐いた。その息は美葉の胸に当たる。ブランデーの香りの呼気はぬるい熱を持っていた。


 「言うたら、怒られるわ。」

 保志の顔を思い浮かべる。一瞬ぎゅっと胸が苦しくなった。


 「誰に?」

 「それも言うたら、怒られる。」


 ふふふ、と無理矢理笑いを作った。衝動的に身体を起こし、美葉を抱きしめる。貼り付けた笑みを外すのを忘れたまま、すがりつくように腕に力を込めた。


 「美葉の心を、僕にちょうだい。」

 口が勝手に言葉を作った。

 「お願いやから、僕を愛して……。」


 美葉の手が背中に回り、ぎゅっと抱きしめ返す。


 「もう少し、待ってて……。」


 掠れるように頼りない声で、美葉は答えた。


 「心は、持ち主の思い通りに動いてくれないの……。」

 寂しげな呟きが、首筋をくすぐる。

 「それは、困ったもんやね。」

 そう答えて、突然今まで味わったことのない恐怖に襲われた。


 ――いつか、美葉は自分の元を去るかも知れない。


 そんな概念が湧き上がり、狂おしいほど怖くなる。自分を抱きしめるこの腕が、包み込むぬくもりが去って行ってしまうかも知れない。


 そんなことは、到底受け入れられない。


 抱きしめる腕に力を込め、床に横たえる。むさぼるように首筋に舌を這わすと、美葉は小さく身じろぎをした。微かな抵抗を抑え込むように左手を胸に伸ばし、右手で身体を包んでいるTシャツを剥ぎ取った。露わになった鎖骨に唇を寄せようとして、それを見付けた。


 ヤスリでこすったように点在する、小さな瘡蓋。その下にあったはずの痕跡は既に消えていた。


 思わず、身体を起こす。

 

 「僕に抱かれるのは、嫌やった?」

 想像以上に傷付いた心で、問いかける。


 美葉が身体を起こし、抱きついてきた。その力に引き寄せられる。美葉は両足を腰に絡めてきた。全身ですがりつく美葉の身体は、小さく震えていた。

 

 「どうして良いのか、分からない。自分の存在がスカスカで怖いの。どうして良いのか、分からない……。」


 美葉の声も、震えている。


 美葉は今、自分でもどうしようもないほど不安定なのだと知る。思うように動かない心には、塞ぎようのないほど大きな穴が開いている。その穴を埋める為に美葉は全身で自分を求めているのだ。


 唇を合わせ、舌を絡ませる。


 ――今のうちに。


 むさぼるように舌を動かしながら、心のどこかで嫌になるほど冷静に考えている。


 今のうちに、美葉を手に入れる。


 彼女が何時までも傷心でいるわけがない。いずれ代わりに支えとなるものを見付け、前を向いて歩き出す。その時には、お遊びの関係など馬鹿馬鹿しいものに映るだろう。


 失いたくない。たとえ会社の利益にならないとしても、生涯傍にいて欲しい。そう思える女性に生まれて初めて出会った。だから、絶対に手放したくない。


 ハリボテのような心の中に入り込み、確たる関係を築き上げるのだ。今のうちに。そうすれば美葉は、一生を掛けて影のある男を支えようとするだろう。


 瘡蓋の上に唇を当て、もう一度その跡を残す。


 美葉は、誰にも渡さない。

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