木寿屋の思い出
打ち合わせを終え、木寿屋に戻ってきた美葉は数寄屋門に掛かるのれんをくぐろうとして手を止めた。
そう言えば、木寿屋も京町家をリノベーションした建物だと、改めて思ったのだ。数寄屋門から一歩下がり、6年以上通い続けている建物を見つめる。
木寿屋の本社は少し離れた桂川沿いにあり、ここはサテライトショールームである。1階は抹茶パフェが美味しいと評判の隠れ家的なカフェになっている。その2階がフローリングのショールームとスペースデザイン事業部のオフィスだ。
涼真が社長に就任してから、このサテライトショールームを建てたらしい。観光地にあるカフェ。そこを訪れた客に無垢のフローリングの存在を知って貰えるように。そういう狙いがある。
「私は、まんまとその狙いに引っかかったというわけだ。」
今更ながらそう思い、蜘蛛の巣に引っかかった蝶を連想した。いや、別に悪い罠に引っかかったわけではないと思わず笑ってしまう。
小豆色ののれんが掛かる数寄屋門は、若干開けるのを躊躇する。白い円が染め抜かれ、そこに「木寿屋」と屋号が書かれているものの、これでは何の店だか分からない。表だってカフェらしくしていないから、「隠れ家的」なのだ。
この門を、健太はなんの躊躇もなく開けたな。
初めてここを訪れた修学旅行の日のことを思い出し、吹き出しそうになる。
高校二年の修学旅行は関西方面で、京都を自由に散策する事になっていた。「京都に行くなら木寿屋の抹茶パフェを食べるべきや」と保志にそそのかされて、下手くそな地図を頼りに何とか辿り着いたのだった。
美葉は数寄屋門の格子戸を開けた。その先に細い庭があり、飛び石が入り口へ客を誘う。小さな幟を見て、やっとここがカフェなのだと分かるのだ。
細い庭は元々通り庭と呼ばれる土間だったが、改修するときに屋外の庭にしたらしい。その先は店舗裏の坪庭へと続いているため、カフェの入り口の向こうにも飛び石が続いている。
庭には低木が植えられていて、白いサルスベリが目に涼を与えている。
「抹茶パフェ」の幟を横目に店に入ると、エアコンの涼気が夏の日差しにほてった身体を冷やしてくれた。
入り口の右手に4人掛けのテーブルがあり、左手に小さな小上がりがある。カウンター前に二人の女性が並んでいた。抹茶ソフトを買い求めているようだ。カウンターの中にいるアルバイトの女の子が忙しそうにしながらも「お帰りなさい」と声を掛けてくれた。
「ただいま」と返事をしながら、小上がりに目をやる。
修学旅行のあの日、美葉達はあの小上がりに座った。小上がりからは、裏の坪庭を眺めることが出来る。
美葉は客に会釈して後ろを通り、カウンターとトイレの間にある階段に向かった。階段の壁には赤い矢印のパネルが貼り付けられていて、斜め上を示している。
矢印には「ギャラリー」と書かれていた。
修学旅行では残念ながら、小上がりに座って皆と一緒に抹茶パフェを食べることは出来なかった。美葉はトイレに立ち、戻り際にこの矢印を見付けてしまったからだ。
恐る恐る上った階段の先に、ショールームがあった。美葉はその時の記憶を辿りながら何千回も昇降したはずの階段を上る。
窓と平行に、フローリングのパネルが並ぶ。あの日の自分は、正人の影響で木に興味を持つようになっていたが、こんなに沢山の種類があることは知らなかった。
美葉は、あの日自分が目をとめたパネルの前に立ち、フローリングのサンプルに触れる。
「イエローハニーバーチ……。」
『
フローリングの名前を呟くと、初めて聞いた涼真の声が耳に蘇る。美葉は思わず何もない空間を振り返った。
ああ。
美葉は思わず大きな息を吐いた。
あの日、私の運命は動き出したんだ。
そう、心の中で呟く。
涼真から聞いた「スペースデザイン」という言葉に魅了された。正人の家具の魅力を最大限に引き出したい。最初はそう思っていた。学ぶために京都に来て、京都に骨を埋める決意をした。
あの矢印を見付けなければ、自分はどう生きたのだろう。
不意に湧いた問いは後悔の色を含んでいた。振り払うように視線をオフィスのドアに向ける。
選ばなかった未来に思いを巡らすのは時間の無駄だ。
スペースデザイン事業部のドアを開けると、佐緒里が振り返った。
「美葉、打ち合わせ結構掛かったやん。おつかれさん。」
珍しくねぎらうような声を掛けてくる。向かいの席で片倉が甘えたこと言うなと言いたげにフンと鼻を鳴らす。
「ぜんっぜん楽勝ですから。ノルマはちゃんと掃きますんで安心してください。」
そう言った後、フン、と鼻を鳴らし返してやった。
「京町屋のリノベーションって、楽しそうですねー。図面出来たら見せてくださいね!」
見奈美がわくわくした様子で言う。
「うん。久々に血がたぎるわー。」
「美葉さん、燃えてますね。そう来なくっちゃデス。」
ガッツポーズの美葉に一恵が憧れの眼差しを向ける。
「随分楽しそうやが、仕事は全部平等にこなせ。どんな仕事にも優劣つけるなんてナンセンスや。社長直々の案件かなんか知らんけど、それで手を抜いたらプロ失格やで。」
ぼそぼそと片倉が言う。
「私が何時手を抜きましたかね。顧客からのアンケート、満足度は私の方が片倉さんより高かったんですよ。覚えてます?」
「接客態度の項目が俺よりちょびっと高かっただけやないか。若い姉ちゃんが愛想良う接客すれば点数は上がるやろ、そら。」
「負けた理由が分かってんなら、見た目と年齢補うぐらい愛想良くしたら良いんじゃ無いんですかねっ!」
「愛想振りまかんでも、俺は中身で勝負しとる。」
「私は中身+愛想で勝負してますよ。その方がお客様にとって気持ちの良い時間になりますからね。」
バチバチと視線がぶつかる。そして、フン、とお互いに鼻を鳴らした。
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