初出勤-2

 思いがけないリアクションに悠人は一瞬驚いた顔をし、その後頭に手を置いて大きな笑い声を上げた。


 「ごめんごめん。余計なお世話だった。」

 アキは血の気の抜けた顔を地面に伏せていた。ふっと波子が息を吐き、その肩をポンポンと叩いた。


 「一つ言っとくよ。私はね、不自然な気の使い方をするのは嫌だからね。アキが正人や美葉と顔を合わさないように、なんて配慮は一切しない。皆でご飯を食べるときは、あんたも、正人も、美葉も佳音も皆に声を掛けるよ。」


 アキは驚きで目を見開き、波子の顔を見た。波子はうんうんと大きく頷いて見せた。


 「そういや、美葉と正人はどうなったんや?仲直りしたんか?」


 おもむろに保志は自己紹介の輪の中に割り込んできた。健太は、昨日の正人の様子を思い出した。鈍よりとした暗雲が胸に沸き起こり、顔をこわばらせて首を横に振る。


 「……電話口で、美葉が怒って別れるって言ったらしい。」

 「……なんや、それ。」

 保志は口をあんぐりと開けた。アキの口から、ハッと大きな息が漏れる。


 「正人はそれを真に受けて、シュンとしている。何故か自分の存在を全否定してさ。」


 「何ぃ?」

 保志は大きく顔を歪ませる。波子と悠人も眉をしかめて顔を見合わせた。そこにいる皆が、工房が立ち行かなくなった時の、正人の混沌とした落ち込み様を思い返しているようだった。


 「……私が悪いんです。ごめんなさい。ごめんなさい。」

 アキが呻くように言い、青ざめた顔を両手で覆った。

 「正人の幸せを、壊すつもりなんてなかったのに……。」


 そう呟く声は震え、嗚咽が混じる。震える小さな身体が痛々しく、思わず肩を叩こうとして、一昨日同様のことをした時のアキの反応を思い出した。躊躇していると、波子の手がアキの肩に伸びる。小さな身体を自分の方に引き寄せて、母が子供をあやすように背を撫でた。


 「あんたが悪いわけじゃないよ。あんたは生きるために精一杯のことをしただけさ。後は、正人と美葉の問題。二人の人間が一緒になろうと思ったらいろんな問題にぶち当たるもんさ。その度に美葉が腹を立てたり正人が理解を求めることを諦めたりしていたら、どの道上手くは行かない。」

 「そうだね……。今回は、二人にとって最初の試練かも知れないね。」

 悠人が頷いた。アキはそれでも、首を小さく横に振る。


 「私が現われなかったら、私のことで争うことはなかったのに……。」

 波子は、微笑みを浮かべて摩っていた手でポンポンと背を叩いた。

 「それも、変な話だね。正人があんたと結婚してたって事実は、確かに存在する。知らないままでいていい話じゃない。」

 アキはなおも泣きじゃくる。


 「……消えてしまいたい……。」


 小さく漏れた言葉に、健太はカッなった。


 「そんなこと言うな。」


 強い言葉に、アキはびくりと身体を震わせた。健太は、身体を丸めて両手で隠された顔をのぞき込んだ。


 「お前、昨日猛に誓ったべ?『もう嬉しい時にしか泣かない』って。自分で立てた誓いだ。簡単に破るな。お前が消えたら、猛はどうする?あんな母ちゃん思いの子に、悲しい思いをさせるんじゃねぇよ。」


 アキは、はっと顔を上げた。顔から少し離れた両手から、涙に濡れた睫が覗いた。


 「やれやれ。」

 保志が肩をすくめた。


 「しゃあない。俺が一肌脱いだろ。あの不器用な二人のためにな。」

 そう言いながら、右側の口角をにっと上げた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る