アキと正人の出会い-2

 その日は体調が悪かった。それなのに強い酒を執拗に客から勧められて、頭がクラクラしていた。異変に気付いたママが熱を測ると、38.7℃もあった。閉店までまだ時間があったが、ママにタクシーに押し込まれ、帰宅した。


 玄関のドアを開けようとして、心臓が止まるかと思うほど驚いた。


 隣の部屋の前に、人が蹲っていたからだ。


 恐る恐る身体を揺すってみた。氷のように冷たかったが、顔を上げてくれた。紫色の唇で、譫言のように言う。

 『放っておいて下さい。不可抗力が成立するところなんです。』

 『は?』


 思わず聞き返した。


 『鍵をなくしたんです。家に入れなくて凍死したのなら、自殺じゃ無いから約束を違えたことにならないんです。もう少しで死ねそうなんです。放っておいて下さい。』

 『やだ、やめて。そんなところで死なれたら、気持ち悪い。』

 『申し訳ありません。でも、許して下さい。』

 『嫌よ。死にたいなら後で付き合ってあげるから、そんなとこで死なないで。』

 

 強引に腕を引き、自分の部屋に入れた。


 同じ年頃の、綺麗な顔をした男だった。


 部屋の片隅で蹲り震えている男は、今まで見たどんな存在よりも弱くて惨めだった。そう、自分よりも弱い。そんな存在に出会ったのは、初めてだった。


 熱と酔いで頭がぐるぐると回っていた。


 こいつになら、勝てる。物のように扱われて散々痛めつけられて。自分がされてきたことを、こいつにならしてやれる。


 復讐、だった。


 嘗て母が連れ込んだ男にされたように、冷たい身体に馬乗りになった。驚く男の頬を平手で叩いた。パチンと頼りない音がした。


 でも、結局復讐になんてならなかった。

 男は皆同じ顔で、同じ事をする。この男も同じで、ただただ気持ち悪さだけが残った。

 『気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!女がこんなこと喜んですると思うなよ!気持ち悪いんだよ!』

 そう叫んで、男を蹴飛ばした。何度も、何度も。


 気付いたら朝で、ベッドで眠っていた。男の姿はどこにも無くて、あれは悪い夢だったのかと思った。


 だが、程なくして男が現われた。


 チャイムの音にドアを開けたら、小さな鍋を抱えて立っていた。

 『熱、どうですか?……僕もね、熱出しちゃいました。それでね、お粥作ってみたんです。一緒に食べませんか?』


 男が作った「お粥」は水っぽい米。一口食べて、思わず目を合わせた。

 『お粥って、あんまり美味しくないんですね……。』

 『多分、作り方が違うんだと思う。』

 病院で食べたお粥は、もっとドロドロしていてそれなりに美味しかった。これは多分、冷や飯に湯をかけただけなのだろう。男は残念そうに肩を下げていた。


 それから、おもむろに土下座をした。

 『昨夜は本当に申し訳ありませんでした。命の恩人なのに、あんなことをしてしまって……。』


 人から謝られたのは初めてだった。まして土下座など。そもそも、彼の方が被害者なのに。


 それから、何故あの日死にたかったのか理由を聞いた。自殺した母親の後を追いたいのだが、自殺をしてはいけないと約束させられているらしい。

 『約束なんて、破っちゃえば。何なら付き合ってあげる。私もいつも死にたいって思ってる。でも、死体が残るのが嫌なの。この世から跡形も無く消えて無くなれるんだったら今すぐにでも死にたい。』

 『跡形も無く消える……。』

 男は真剣にその方法を考えてくれた。一級河川の河口付近に身を投げるのが一番妥当なのではないかと提案された。小難しい言葉を使う人だと思った。首を傾げていると、大きな河が海に流れ込む場所の近くなら水流も水量もあるから、遺体は水中に潜ったまま海に流れて行くだろうと解説してくれた。海に流れ着けば、誰の目にも触れないまま海に還ることができそうだ。理想的な方法だった。


 しかし。


 残念なことに、旭川は北海道のど真ん中だ。河口までは遠い。車が無ければ、そんなところには辿り着けそうも無かった。


 『面倒だね。』

 思わず呟いてしまった。

 『面倒だと思うなら、止めておいた方がいいですよ。』

 そう言って、男は微笑んだ。なんだか上手く丸め込まれてしまったような気がした。

 

 一年近く隣同士だったのに、顔を合わせたことが無かったのは、生活リズムが全く違うからだった。だから、これからも会うことは無いだろう。そう思って、名前も聞かずに別れた。


 しかし、程なくして妊娠したことに気付いた。貯金なんて殆ど無かったから、中絶手術をするお金が無い。だから、半分出して欲しいと頼んだ。


 そしたら、とんでもないことを言い出した。

 『中絶なんて駄目ですよ!結婚して一緒に子供を育てましょう!』

 

 

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