アキと正人の出会い-3

 『中絶なんて駄目ですよ!結婚して一緒に子供を育てましょう!』


 何を言ってるんだと思った。お互いの名前も知らないのに。大体子供を育てることなんて、自分に出来るはずが無い。だって、まともに育てて貰ったことがないんだから。「親」っていうものがどんな役割を果たす存在なのか、それすら知らないのに。


 だけど、男は頑固だった。

 正人と名乗った男は、それから毎日結婚しようと言いにやってきた。


 お金を出してくれないのなら、自力で流産するしか無い。そう思って、短いスカートと薄いブラウスを着て、コートを羽織らず外に出た。薄暗い朝だった。強い風が吹き、粉のような雪が渦を巻いていた。風はたちまち体温を奪っていく。


 このまま公園かどこかの片隅で蹲っていたら、身体は吹きだまりで覆われて雪と同化できるだろうか。春になって雪が解けるまで、この世から消えていられるかも知れない。でも結局、薄汚い姿を晒すことになるのだろうな……。


 そんなことを考えた時、身体をふわりと何かが包んだ。


 『風邪、引きますよ!』


 正人の声が背中に届いた。

 頭から被せられたものは毛布のようだった。少し黴臭い。湿っぽくて、重たくて、いつか嗅いだ正人の体臭が染みついていた。


 正人は、ランニングシャツにトランクス姿で、裸足のまま雪の上に立っていた。


 何が起こったのかよく分からなくて、ただただ立ち尽くしていた。毛布がずり落ちそうになり、慌て握りしめ、ぎゅっと身体に巻き付けた。


 黴臭くて、湿っぽくて、重たくて、ゴワゴワして。


 温かくて、正人の匂いがして。


 この世界で、生まれて初めて人から貰った、自分を温めてくれるもの。


 喉の奥が熱くて、苦しいくらい痛くなった。無意識に出した自分の声が、怖かった。目の奥が熱くなって、ボロボロと水がこぼれていく。喉が勝手に、ヒクヒクと音を立てる。このまま呼吸が止まってしまうかも知れないと思った。


 暫くして、自分が泣いているんだと気付いた。


 「泣く」っていうことを、随分長いこと忘れていた。


 泣いたって、喚いたって、誰も助けてくれない。お腹が空くだけ。だから、泣くのは止めたのだ。


 隣で呻くような声が聞こえた。


 正人が、大量の涙と鼻水を流している。呻き声は次第に大きくなり、子供のような泣き声に変わった。


 ***


 頑固な正人にお爺さんが折れて籍を入れたら、ずっと嫌だった「濡田アキ」という名を捨てることが出来た。


 会社の敷地にある社宅で二人の暮らが始まった。正人は仕事熱心で、いつも帰りが遅かった。正人のために料理を覚えたけれど、一緒に食事をする事はあまり出来なかった。深夜に帰る正人を食事をせずに待っていたら、お腹の子に良くないと叱られてしまうから。


 でも、ある日正人は自分のために椅子を作ってくれた。この世でたった一つの、自分だけの椅子。それを窓際において、特等席を作った。ここなら、通りを曲がって帰ってくる正人の姿を一番早く見付けられる。お腹の子は元気に育ち、ぷくぷくと動く。赤ちゃんと一緒に正人を待つ時間は、幸せだった。


 でも、その幸せは長く続かなかった。


 産婦人科で母子共に順調だと言われた帰り道のことだった。歩道橋の階段を上りきったところに、あの男が立っていた。


 『やっと見付けた……。勝手に居なくなったから、心配したんだよ。一生懸命、探したんだ。さあ、帰ろう。帰ったら少し、お仕置きをしなくちゃね。』

 伸ばしてきた手を反射的に避けたら、階段を踏み外してしまった。ニキビ跡の残る弛んだ頬が、青空に変わったのを覚えている。


 病院で目覚めた時、お腹から赤ちゃんは居なくなっていた。

 

 階段から落ちた理由を、正人に話すことが出来なかった。正人はあの事件のことを知らない。正人には知られたくない。でも、あの男はまた現われるかも知れない。


 怯える自分を正人は持て余しているようで、その内仕事から帰ってこなくなってしまった。正人は子供が出来たから結婚したのだ。二人の間に恋愛感情は無い。その証拠に、正人は自分に触れようとしなかった。二人の間にはいつも、人が一人入れる位の距離があった。


 赤ちゃんが居なくなり、正人が帰らなくなり、あの男は何時やってくるか分からない。孤独と不安と恐怖で、どうにかなってしまいそうだった。


 そんな時、佐野さんが心配して訪ねてきてくれた。佐野さんは正人の会社の先輩で、スナックの常連さんだった。とてもよくしてくれた人で、何度か、執拗にホテルに誘ってくる客から守ってくれた事があった。正人が毎日会社に寝泊まりしているので、寂しくないかと気に掛けてくれたのだ。


 その優しさに甘えて、つい階段から落ちた理由を話してしまった。


 佐野さんは、助けてやると言ってくれた。一緒にどこか遠くの街に行って、二人で暮らそう。必ず幸せにするから。


 その言葉に、縋ってしまった。


 正人と離婚して、佐野さんと江別に移り住んだ。佐野さんは家具職人を辞めて長距離トラックの運転手になった。でも、彼は根っからの家具職人だった。望まぬ仕事と、見知らぬ土地での暮らしは彼の心を蝕んだ。いつの間にか酒に酔っては暴言を吐くようになった。


 その姿は、記憶の片隅にある父の姿と重なった。

 自分のせいで優しい人が悪い人間に変わっていく。それを黙って見ていることが出来なかった。


 『他に好きな人が出来たから、別れて欲しい。』

 きっと、『やっぱり男癖が悪い女だ』と嫌味の一つも言われるだろうと覚悟していた。けれど。


 『ごめんな。』

 佐野さんは、たった一言だけ、そう言った。


 ずっと一人で生きてきたのに、一人に戻ったら居たたまれないほどの孤独を感じた。


 結局、自分の人生は何なのだろう。こんなに孤独になるのなら、幸せな時間などいらなかった。幸せは孤独を際立たせるためにあるのだろうか。だったら、生きていくことに何の価値があるのだろう。


 暫く忘れていた「死にたい」という気持ちは、はっきりとした輪郭を持って心に再来した。


 そんな時、妊娠していることに気付いた。

 ぷくぷくと動く感覚を思い出して、下腹部に両手を置いた。


 『この子を産んだら、一人ではなくなる。』




 そう、思った。

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