星空-2

 暗い山道を登っていく。幾つものカーブを抜けると、ポツンと斜面に佇む家が見える。千紗が一人で桃香を育てた家だ。


 悠人は庭に車を止めた。数日前にも千紗はここに来ていて、その時に草を刈ったらしく、庭の雑草は芝生のように短く揃っていた。悠人は車を降りた。千紗も続いて降り、玄関に向かう。悠人はその身体を後ろから抱きしめた。千紗の小さな身体が、びくりと震える。悠人は千紗の身体を自分に向かせ、唇を合わせた。


 そのまま、そっと地面に横たわらせる。


 覆い被さるようにして、千紗を見下ろす。


 千紗は困惑の視線を向けた。小さな顔に勝ち気な瞳、大きな口元。昔と少しも変わらないなと思いながら、見つめる。千紗の瞳に不満が浮ぶ。こんなところで事に及んだら虫に刺されて大変だとでも言いたいのだろう。その視線に悠人は笑みを返してから、ごろりと仰向けに転がった。


 天の川が斜めに空を飾り、そこから溢れるように星が瞬いている。青白い星、赤みを帯びた星、大きな輝きを放つ星、粉雪のような淡い星。虫の音が、空に吸い込まれていくようだ。


 「千紗。」

 悠人は空を見つめたまま、妻の名を呼ぶ。兼ねてから考えていて、伝える勇気を持てなかった。その言葉が、どうしようもなく胸にわいて、唇から溢れる。


 「俺の子供、産んでよ。」


 え、と千紗は小さく声を発した。千紗が機嫌を損ねたのが、空気で分かる。そうなることは分かっていた。だから躊躇していた。


 「結婚するときの条件と違う。」

 「分かってるよ。子供は桃香一人でいい。これが条件だった。」

 「分かってるなら、言わないで。」

 「お願いします。条件と違うから、お願いしてるんだ。」


 千紗は、ふてくされるように黙り込む。悠人は顔を横に向け、空を見上げている千紗の顔を見た。頬に草が当たり、ちくちく刺激する。


 「だってさ、桃香との喧嘩に口を出したら、『子供育てたこと無いくせに』って言うじゃん。それって、フェアじゃ無いぜ?」

 「何よ、対等に喧嘩するために子供が欲しいの?」

 「そういう訳じゃ無いよ。」


 悠人は思わず笑った。


 「俺の子供が欲しいんだよ。純粋に。愛している女に、自分の子供を産んで欲しい。それって、当たり前のことだと思わねぇ?」

 「知らないわ。私男じゃないから。」

 千紗の口調は子供のようで、悠人はまた笑った。


 「……千紗も、桃香のお母さんを半分休んだ方がいい。」


 悠人は視線を空に戻した。


 「結局、説教したいんでしょ。」

 千紗の声音が身構えるように硬くなる。悠人は見えないと知りつつ首を横に振った。


 「千紗が苦しんでいるのを、見たくないんだ。」


 千紗が息を飲んだのを、気配で感じる。


 「千紗が苦しんでいて、桃香も苦しんでいて。そんなのはもう、見たくない。千紗が、桃香を心から愛していて、心配していて、何とかしたいと思っている。それが痛いほど分かる。でも、桃香はもう千紗の腕の中に収まらない。千紗がどんなに身体を張って守ろうとしても、桃香を守り切ることは、もう出来ないんだ。」


 千紗が両手をあげた。その肘を折り曲げ、拳を両目に押し当てる。湿った吐息が聞こえた。


 「……桃香とずっと、ここにいたかった。私が丈夫に産んであげなかったから、桃香が将来苦しむことになる。それが分かった時は、本当に怖いと思った。何とかして、守ってあげたかったの。ここでずっと、二人で暮らしていきたかった。」

 「知ってるよ。でも俺が引きずり出してしまった。」


 嫌々をするように、千紗は顔を横に振る。


 「悠人が助けてくれたの。窒息しそうだった。どうしていいのか分からなくて。」

 「……助けに、なったのかなぁ。」


 悠人は、頼りない息を吐いた。


 「助けに、なったよ……。」


 千紗がささやくように言う。


 「桃香が大きくなっていく。それと共に、人と自分が違うことに気付いていく。不安に思っていたことが、次々と現実になっていく。一人ではきっと抱えきれなかった。」


 「そうだ……。」


 悠人は手を伸ばし、千紗の手首をそっと掴んだ。


 「多分、もう、抱えることは出来ないんだ。俺と千紗の二人でも。桃香はもうすぐ子供じゃ無くなる。自分の人生を自分の足で歩く準備を始める。その人生が困難であることに、もう気付いている。これからは、抱えるんじゃ無い、支えるんだ。」


 千紗の身体が小さく震え、唇から嗚咽が漏れる。


 「桃香を抱えていた腕に、俺の子供を今度は抱えて。」


 桃香を縛る腕をほどいて、新しい命にその愛を注げば、桃香も楽になる。そして、千紗の心も救われる。

 悠人はもう一度空を見上げた。この空を、自分は生涯忘れることは無いだろうと思う。


 悠人は千紗の手首から手を離し、その上にある指を探った。千紗が悠人の指に自分の指を絡ませる。


 「愛しているよ、千紗。」


 悠人は絡めた指に力を込めた。

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