星空-1

 千紗がジムニーのドアに手を掛ける前に、その手首を掴むことが出来た。悠人はするりと運転席に乗り込み、助手席のドアを開けた。千紗は眉をしかめたまま、躊躇っている。


 「山の家に行くんだろ?俺も一緒に行く。」


 視線を正面に向けたまま、千紗に声を掛けた。少し離れた場所に国道と交わる交差点がある。青信号が点滅し、黄色を灯し、赤に変わる。千紗は、渋々と言った様子で助手席に乗り込んだ。


 千紗がシートベルトを付けたのを確認し、エンジンを掛けた。念のため、ドアをロックする。


もし口論になったら、感情的になった千紗が飛び降りるかもしれない。


ふとよぎった思考に対して対策をとる。そんな馬鹿なと嗤いつつ、完全に否定できない危うさを千紗から感じていた。


 無言のまま、車を走らせる。一度町中に入り、道々81号線で郊外を目指す。本来なら給食センターを過ぎたところで右に曲がるのだが、そのまま直進した。急に民家が減り、灯りの源がなくなった。暗闇に飛び込んで行くようだ。


 「……どこ、行くのよ。」

 千紗が不満げな声を上げた。


 「ちゃんと、連れて行くよ。でも、ちょっと走ろう。」 

 自分の声が落ち着いていて、安心した。だがまだ、千紗の顔を見る気になれない。


 どうしていいのか、分からなかった。このまま山の家に行っても気まずい思いをするだけだ。きっと喧嘩をしてしまい、事態が余計に拗れてしまう。


 自分は、どうしたいのだろう。


 ヘッドライトが暗闇を照らす。スエーデンヒルズの下を海に向かって進んでいきながら問いかける。


 まだ、自分は千紗を愛しているのだろうか。そう問いかけ、確たる答えが無いことに愕然とする。


 そもそも何故、千紗を好きになったのだろう。彼女の何に、惹かれたのだろう。


 高校二年と三年で、同じクラスだった。男勝りでサバサバしていて、おしゃれな女の子だった。数人の仲良しグループの一員として、側にいた。


 『東京のおしゃれなショップで、カリスマ店員になりたい。』


 幼い少女のような夢を、本気で叶えるために東京へ出て行く。自分は家業の農家を継ぐ。あまりにも違う夢を追う千紗に憧れた。だが別の世界の人のようで思いを伝えることが出来なかった。


 卒業と同時に、初恋を諦めた。


渋谷や原宿はいつも蒼い憧れが詰まっている。当時は「カリスマ店員」や「読者モデル」が女子の憧れだった。


 「そう言えばさ、カリスマ店員って言葉、今じゃ死語だよな。」

 ふと思いついたことが、口をついて出た。


 「何よ、急に。」

 不機嫌な声が応じる。


 「一応、渋谷のショップで店員してたんだからね。結構営業トーク上手いって褒められてたんだから。」

 「カリスマになれそうだった?」

 「勿論よ。」

 千紗がふっと息を吐いた。


 「……あんな男に捉まらなければね。」


憧れを手中に納めようと都会へ飛び込んだ千紗はみんなの英雄だった。けれど、少し大人になれば、無防備で幼い行動だと見方が変わった。不倫相手の子を孕み帰って来た千紗を「それ見たことか」という視線が出迎えた。


 物事が変化するときに、起点となる出来事がある。それが、千紗にとって「あんな男」との出会いなのだろう。千紗はその出会いも、その後の顛末も悔やみ続けているのだろうか。だとしたら、桃香を産んだことも?


 「千紗は、その男のこと、本気で好きだったんだ?」


 千紗が一瞬口ごもった。


 「何よ、今更そんなこと……。」

 言いよどんで、俯く。悠人は千紗を見ることが出来るようになった自分に、気付いた。


 「好きだったよ。本当に、好きで好きで仕方なかった。絶対自分を選んでくれるって信じて疑わなかった。」

 吐き出すようにそう言って、大きく息を吐く。


 「……馬鹿だよね。」


 「うん。馬鹿だ。でも、人を好きになるって、そんなもんだ。」


 坂道を登り切ると、望来もうらいの黒い海が見えた。海に飛び込むように坂道を降りていく。下りきったところにある交差点に、青信号が灯る。減速し、緩やかなスピードで右折する。


 山の家に向かう道に入る。

 今ならちゃんと、対話が出来る。そう思った。

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