はちみつレモン
正人は桃香の顔を見て、瞬時に何か大きな事が起こったと察したようだ。だが何も問わず、湯を沸かした。
湯が沸く間に佳音は桃花の傷の手当てをした。刃が入った場所は深かったが傷の幅は5㎜にも満たない。陽汰の素早い行動のお陰で縫合しなくても良さそうだが、あのまま刃が手首を走っていたらと思うとぞっとする。消毒をし、止血のためにきつく包帯を巻く。波子は、椅子に座り蹲る桃香の背を撫でている。桃香はやっと声を出すのをやめたが、涙は止まらない。
耳を劈くようなヒステリックな泣き声だった。感情の統制を失った桃香を見ていると、胸が痛くなる。
湯が沸き、マグカップに注ぐとふわりと甘い香りがたった。正人が盆に乗せて運んできたマグカップを、丁寧に桃花の前に置き、佳音と波子の前にも置いた。
桃香は顔を上げて、両手でマグカップを持った。ふうふうと息を吹きかけて、口に含む。その目から、ぽろぽろと涙が溢れる。正人が自分の椅子を引き、桃香の横に座った。桃香は安心したように一つ息を吐くと、涙を拭かずに、ゆっくりとはちみつレモンを飲んだ。
誰も何も言わない。静寂の中に、はちみつの甘い香りが満ちていく。この空気が、少しずつ桃香の心を落ち着かせているのが分かる。
正人が作る空気には、癒やしの効果があるのだろうか。
「……私、この先どうなるんだろう。」
桃香が呻くように言う。重たい言葉は澱のように空気に沈んでいく。佳音は息苦しさを感じ、肩で息を吐いた。無意識に両手で自分の腹を抱える。波子は無言で桃香の肩を抱きしめる。
「自分の身体が、嫌で嫌で仕方ないの。」
正人は静かな眼差しを桃香に向けている。桃香は正人にすがるような視線を向けた。
「……どうしたらいい?」
その問いかけを、正人は困ったような顔で受け止めた。
「……どうしたら、いいのかな。」
空気を含み掠れた声で正人が答える。桃香はあるはずのない答えを、正人に求めている。
「どうしたらいいのか、僕にもよく分からない。だけど、いつでも桃ちゃんと一緒に考える。」
弱々しい声音で、辛うじてそう答える正人の顔が苦し気に歪む。桃香の痛みをそっくりそのまま抱え込み、それを解決しなければならない大役を背負い、果たせない自分を責めている。
「何よ、頼りない答え。」
桃香は唇を尖らせて俯いた。桃香の周りにある、重たく張り詰めた空気が少しだけ溶けた。
自分の苦しみを共に背負ってくれる人がいる。
それだけで心は少し軽くなったのだろうか。
「今日は、おばちゃんとここに泊まろうか。」
桃香が波子に視線を移す。
「……いいの?」
「いいよ。」
波子は桃香の頭を撫でた。正人が立ち上がった。
「ベッドルームの布団を入れ替えますね。皆が横になってる布団では、気持ちが悪いでしょう。殆ど使ってない布団があります。ちゃんと干して、シーツも綺麗に洗ってあるから、桃ちゃんがアレルギーを起こすことも無いでしょう。」
にっこりと笑うが、無理をしているのが透けて見えた。
美葉の為に新調した布団だ。始めてデートした日のことを、美葉は嬉しそうに話していた。佳音の胸がぎゅっと痛む。正人は美葉との思い出に蓋をするように、二人のために作ったソファーを仕舞い込んでしまった。きっと、あのデートで買った全て物も一緒に、目に触れないところに隠してあるのだろう。
「私は、帰るね。」
佳音は立ち上がった。美葉の幸せの死骸を見るような気がして、居たたまれない気持ちになったからだ。
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