リストカット-2

 「な……。」


 何をしてるんや。保志は叫ぼうとしたが、安弘が手首を掴み硬い表情で首を横に振る。保志は慌てて声を飲み込んだ。こういう場面では、物音一つがその行為の引き金になる。安弘が空気を揺らさないようにそっと動き、千紗の肩を掴んで桃香から引き離した。千紗は身体をガタガタと震わせている。


 「桃香。そんな危ないことしないで。」


 安弘が声を掛けると、桃香がのろのろと首を横に振る。階段を駆け上がる音が聞こえた。騒ぎを聞き付けた悠人が階段を駆け上がってくる。保志は悠人に向かい、口元に人差し指を当てた。悠人の顔が瞬時に青ざめる。


 「……もう、嫌だ。こんな身体……。」

 桃香が顔を歪め、掠れた声で呟く。


 「わかったよ。でも、傷つけるのは、やめよう。」


 桃香は首を横に振り、カッターナイフの刃を手首に押し当てた。込めた力で指先が白く震える。


 その瞬間、空気がさっと動いた。


 気が付くと桃香の手にあったカッターナイフは床に落ち、陽汰がそれを拾い上げていた。陽汰は桃香の隣の部屋にいて、一連の出来事をそっと見ていたようだ。そして、小さな隙を見付けて桃香に近付き手首を外側にはたいた。力が抜けた桃香の手から、カッターナイフが落ちたのだ。その出来事は、一秒に満たない間に起きた。


 「桃香!」


 悠人が掛けより桃香を抱きしめる。だが桃香は身体を大きく揺らし、父親の手から逃れようとした。波子の姿を見付け、すがるように両手を差し出す。悠人は悲しい表情を浮かべながらも、その場所を波子に譲る。桃香は波子にしがみつき、悲鳴のような泣き声を上げた。


 千紗が二人の横をすり抜けて、逃げるように階段を降りていく。


 「悠人。」

 安弘が悠人の名を呼び、階段の方へ首を振った。悠人はぎゅっと眉をしかめ、首を横に振る。その唇が頼りなく歪んだ。青ざめた顔を背けて譫言のように呟く。


 「俺は……。もう、無理だ……。」

 「馬鹿者!」

 その声を安弘の怒声が消し去る。


 「一度手を差し伸べたんだ。最後まで責任を取れ!」


 父の一喝に悠人の頬がピクリと揺れた。視線は床に向いたままだが、唇を固く結んで一つ頷くと、保志の横をすり抜けて階段を駆け下りていく。


 「さあ、樹々ではちみつレモンを飲もうかな。」

 悲鳴のような鳴き声を上げ続ける桃香の背を、波子がポンポンと叩いている。


 「陽汰、佳音に電話して、はちみつレモンの素と救急箱持って車でこっち来てって伝えてくれるかい?」


 波子の言葉に陽汰は頷き、自分の部屋に行く。程なくしてぼそぼそと話す陽汰の声が聞こえた。桃香は泣き続けている。


 階下に車の発進音が聞こえて遠ざかり、入れ違いにもう一台の車が近付いて来て停まった。波子は桃香の背中を抱いて階段を降りていった。


 安弘が深いため息をつく。 


 「千紗ちゃんが、もっと自分の世界を広げないと駄目なんだわ。」


 確かに、部屋に引きこもってアクセサリーを作る生活ではその世界は狭まるばかりだろう。


 保志もふっと息をついた。ほんの数分の出来事だった。それなのに重労働の後のような疲労を感じた。

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