第十七章 葛藤
リストカット-1
野々村家の居間で保志は、安弘と波子と三人で芋焼酎を飲んでいた。義母の介護も子育ても卒業した波子は、最近よく酒の席に加わるようになった。
「でもねぇ、楽なのは今のうちだけだよ。その内孫の面倒見なくちゃいけなくなるからさ。」
色白の頬を桃色に染めて波子が言う。言葉とは裏腹に、嬉しそうである。
「自宅出産するんやってな。俺、手伝うたろか!」
「やっさんの顔見たら、赤ちゃん産道逆走しちゃうよ。」
保志の軽口に、波子がケラケラと笑ってそう返した。
「孫なんて、都合の良いときだけ面倒見りゃあ良いんだよ。それより、波ちゃん。今まで頑張ってきたんだからさ、ちょっと遊んだらどうだい。趣味を見付けてさ。」
安弘がのんびりとした口調で言う。波子は首を傾けた。
「趣味ねぇ。そんな、いきなり言われてもねぇ。」
「若い頃やってたもんでもええやん。身体張るもんはババアやから無理やろうけど。」
「誰がババアよ。このジジイ。年変わんないでしょう!……若い頃やってたことねぇ。海に潜ったり、釣りに行ったり。いつも海で遊んでたかなぁ。」
波子は保志を睨み付けてから、しみじみと視線を空に向けた。波子は羽幌という日本海沿岸の町で生まれ育った。
「釣りなら、良いんじゃないかい?石狩や小樽に行けばいいものが釣れる。」
「投げやサビキやったら技いらんしな。」
保志が笑うと、波子がムッとして睨みつけた。
「何言ってんの。私は海の子よ。その気になれば鮭だって釣るわよ。」
「へー。それはお見それしました。」
保志が眉を上げると安弘は軽い笑い声を上げた。
「やっさん、釣りするのかい。」
「まぁ、向こうにおったときちょろっとな。」
安弘に聞かれて、保志は曖昧に笑う。
「波ちゃんと一緒に始めたら良いっしょ。やっさんこそ、趣味の一つも持ったらいいベさ。」
「いいね、それ。釣り行こうよ、やっさん。私が教えてあげるから。」
「波ちゃんに教えられたら長靴くらいしか釣れへんのちゃうか!」
今更釣りを再開する気にもなれず、保志は軽口で誤魔化そうとした。その時だった。
「ねぇ!何で参観日のお知らせを渡さなかったの!今日だったんでしょ!」
頭上で千紗の声がした。波子が眉をひそめて天井を見る。
「うるさいじゃ無いわよ。何で来なかったのってスーパーで由美ちゃんのお母さんに言われて、恥ずかしかったじゃない!」
「知らねぇよ!てめえが恥ずかしい思いしたって関係ねぇし!」
桃花が口汚い言葉で応じる。
「何なの!その言葉使い!汚い言葉使わないで!」
「汚いのは言葉だけじゃないし。身体もきたねぇし!」
パシっと叩く音が聞こえた。ああ、と息を吐いて波子が立ち上がる。
「都合悪くなると暴力振るうよな!こんな身体に産みやがって!」
床を踏みならす音が聞こえる。
「うるさいんだよ!うるさい!うるさい!うるさい!」
桃花の声がヒステリックになっていく。安弘も険しい顔で立ち上がる。
「桃花っ!やめなさい!」
悲鳴のような千紗の声に、三人同時に駆け出した。最初に階段にたどり着いたのは安弘、その次が保志。波子がすぐ後に続く。階段を駆け上がると、各部屋を繋ぐ廊下に出る。一番奥の部屋の前に、千紗が背を向けて立っていた。千紗の正面に、桃香が向かい合うように立っている。
その手にはカッターナイフが握られ、刃が手首に当てられていた。
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