喧嘩-1
翌日悠人は正人の元を訪れた。
平日の昼下がり。ドアチャイムの音を聞いても正人はショールームに顔を出さなかった。工房を覗くとノミを使って何かを一心不乱に掘っていた。
「正人が刃物を持っている時に声を掛けてはいけない」という御触れは悠人の耳にも届いていたので、珈琲を飲みながら待つことにした。この「御触れ」は高校時代に美葉が、ともすればすぐに正人をからかおうとする健太達に出したものだ。過集中状態の正人に声を掛けると、驚いて刃物で手を切ってしまう可能性がある。急用がある時は静かにそばに行き、そっと肩を叩く事になっている。
自分の用事はそれほど急を要するものではない。
波子に連れられて今朝帰ってきた桃花は、父親の顔を見ることなく自室に戻ってしまった。階段を上っていく背中が、「お前は父親では無い」と告げているようだった。悠人はその背中に声を掛けることが出来なかった。
結局自分はまだ、逃げている。
けたたましいアラームが鳴る。同時に、正人の悲鳴が聞こえた。かなり集中していたから、アラーム音に驚いたのだろう。このアラームで怪我をしないかが心配だ。
程なくして、正人がカフェスペースに現われた。悠人を見付けると、嬉しそうに笑顔を見せた。
「悠人さん、声かけてくれたら良いのに!」
「仕事の邪魔しちゃいけないと思ったからさ。珈琲頂いてたよ。」
「どうぞどうぞ。無料ですから。」
そう言って笑いながら、正人は悠人の斜め向かいに座った。悠人は正人の顔を見て、ほっと腹の底から息を吐いた。身体の力が抜ける、そんな気がした。
「昨日は、ありがとう。桃花がお世話になりました。」
軽く頭を下げると、正人は微笑みながら首を横に振る。
「僕、何もしてないですよ。訪ねて来てくれた波子さんと桃ちゃんをお迎えしてお話を聞いた。それだけです。」
「それだけで、充分なんだよ。正人さんの場合。」
悠人が答えると、正人は不思議そうに首を傾けた。
「あんまりお役に立てるようなことはしていないんですけどね……。」
そう呟く正人の顔を、悠人はまじまじと見つめる。
悠人と正人は同じ年だ。悠人は正人に友人として親しみを抱いている。だが、正人はいつまで経っても自分を友人として扱ってくれない。樹々を訪れる近隣住民であり、桃香の父親。近隣住民の中では親しい部類。年に数回酒の席を共にする仲。それ以上の関係になれない。
それは多分、正人の言葉遣いのせいでは無いだろうかと悠人は思っている。
正人は、誰にでも敬語を使う。唯一健太だけは、強固なごり押しで呼び捨てにしてため口を使うという関係性に持ち込んだ。だからなのか、正人は健太だけには本音を話すような気がする。健太に便乗して自分も同様に呼び捨てにしてため口をきいて欲しいと頼んだが、「敬語では無い人が増えると混乱する。」という腑に落ちない理由で聞き入れて貰えなかった。
「桃ちゃん、自分を傷つけてしまったんですね。ちょっと、ショックでした。」
正人の声で悠人は我に返った。そして、苦い思いが胸に広がる。小学五年の少女がリストカットをするなど、よほど追い詰められてのことだ。その原因は自分にある。
「桃花のことでは、いつも正人と波子さんに助けて貰って、申し訳ない。俺が、ちゃんと父親をしていたら、こんなことにならなかったのかも知れないね。」
胸に詰まっていた言葉を吐き出した。正人はじっと悠人に視線を向ける。
「難しいんでしょうね。途中からお父さんになるって。」
正人はそう言って自分の事のように苦しそうな顔をした。
「難しいんだ。……だから、逃げた。」
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