喧嘩-2

 「逃げた?」


 正人の言葉に悠人は、テーブルに視線を固定したまま俯いた。


 「結婚するとき、千紗はいくつか条件を出したんだ。農家の手伝いはしない。嫁としてみたいなことを強要しない。子供は作らない。桃花のことには口を出さない。……テレビ番組の一件で関係が拗れていたから、無条件に受け入れたけど、それが間違いだったんだ。」


 この条件について、誰かに話したことはなかった。当時、こんな条件などすぐになし崩しになると思っていた。一緒に暮らせば家族になれて、自然と千紗は家族の役割を果たしてくれる。桃花と自分も親子になれる。そう信じていた。


 「家業の手伝いも、家族の中での役割も果たさない。二人の間に子供を作らないし、自分の子供には口出しをするな。……家族の一員になることを、拒否するような条件ですね。」


 あらためて言葉で纏められると、酷い条件だと実感する。ゆるりと視線をあげると、正人はまるで自分がその条件を突きつけられたように顔を歪めていた。


 家族になるのを拒否する女性と結婚し、義父母と義弟のいる家に住まわせる。始めから間違っていたのだと思い知る。胸が苦しくなり、蹲るように頭を抱え込んだ。


 「その条件を飲んででも、一緒にいたかったんですね、千紗さんと。悠人さん、ずっと千紗さんのこと大好きでしたもんね。桃ちゃんのことも、可愛がっていたし。二人の事がとても大事で、少しでも早く一緒に暮らしたかったんですね。」


 穏やかな正人の声が頭上に届く。


 『……じゃあ、いいよ。結婚してあげる。』

 正人の言葉は、苦悩の中に埋もれてしまっていた記憶を鮮明に蘇らせた。


 何度も何度も山の家に足を運んで謝って、やっと、怒った顔で千紗がその条件を突きつけた。


 『分かった。何でも、千紗の好きなようにして良い。だから、僕と結婚してください!』


 土下座をするように、頭を下げた。千紗は大きな溜息をついた後、そう言ったのだ。


 最初は、千紗にとっても冗談のようなものだったはずだ。一緒に住み始めた当初は悠人の手伝いもしていたし、家事も積極的だった。嫁として、両親との関係を構築しようともしていた。


 しかし、小さな諍いの度にその契約が持ち出され、力を得ていった。いつしか言葉が呪縛のように千紗と自分を縛り付けてしまった。桃花は不安定な母親と、父親になってくれない母の夫との狭間で戸惑っていたのかも知れなかった。


 本当は、ただただ一緒にいたくて、幸せにしたくて、結婚したはずなのに。


 「……俺は、間違ってた。」

 溜息と共に、涙が溢れてくる。


 「間違ってる?どうしてです?悠人さんはずっと、千紗さん桃もちゃんも大好きで、大事にしていたじゃ無いですか。」


 不思議そうに正人が首を傾げた。気持ちはそうだ。二人が大好きで、この世界の何よりも大切だ。なのに、何故伝わらないのか……。


 ふと、気付いて顔を上げる。


 「……伝え方が、足りなかったのかな……。」

 自分は、二人にこの気持ちを正面から伝えたことが無かった。


 「じゃあ、今日から一杯愛情を伝えたら良いですね。良かったですね、解決方法が見つかりましたね。」


 にっこりと笑う正人の顔を見ていたら、肩から力が抜けた。コロンと重たい物が落ちて心に隙間が出来た。そんな気がした。知らずに笑いが込み上げてくる。涙は止まらないのに、笑いも込み上げてくる。


 今日から愛情を一杯伝える。


 解決できないような大きな問題。そう思い込んで胸を占めていたものは、自分の態度を変えれば解決していくかも知れない。時間は掛かるけれど。胸にあった黒い塊が、グズグズ崩れていくようだ。


 悠人は息を吐いて正人を見つめる。


 美葉が正人を好きになった理由が分かる。魔法のように心を解して、温かな気持ちに変えてくれる。この存在の隣にいるという特権は、宝物だったのだろう。


 「正人は、なんで美葉と別れたんだよ……。」

 思わず、呟いてしまった。

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