納品-2
「今を生きる……。」
仁は口の中で正人の言葉を繰り返した。
そして、視線を窓の外に移す。銀泥の葉が日差しを浴びてキラキラと輝いている。葉が纏う白い光を見つめながら、仁は長い息を吐いた。
「そうですね……。僕は、綾と生きていきます。今という時を……。」
そう、呟いた。正人は、安堵したように小さな笑みを口元に浮かべた。
仁は正人の方に視線を移した。そして、正人の笑みを注視する。どこか探るような視線に気付き、正人は居住まいを正す。
「正人さんには、愛する人はいるのですか?」
仁の問いに、正人は狼狽えて瞬きを繰り返した。そして、躊躇いがちに小さく頷く。
「その方とは、お幸せに過ごしているのですか?」
仁にはなんとなく察するところがあったのか、正人に痛い質問をぶつけた。正人は困ったように黙り込む。
「もしも、そうでは無いのなら、愛することを諦めないで頂きたいと思います。」
仁は少し俯き、仏壇の側に置いた手紙の束を手に取った。
「綾の娘さんに、叱られました。何故母を奪っていかなかったのかと。……綾は、娘さんに『後悔の無い人生を送りなさい』と口癖のように言っていたそうです。死んでからその人生が後悔だらけだったと分かり、その後始末をさせられた娘の身にもなって欲しいと言われました。私は、綾を迎えに行くべきでした。例え残りの時間が、病に冒されて変わりゆくものであっても。彼女の下の世話をする毎日であったとしても、顔を付き合わせて積み重ねるものがあった方が良かったと、心底思います。」
仁は手紙を震える手で握りしめた。
「僕と綾が積み重ねたのは、この手紙だけなんですよ……。」
正人は、自分の膝に視線を落とした。
「愛は、責任を持って貫くべきです。その結果がどうであっても、放棄してはいけないと思いますよ……。」
正人は膝に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
***
折角また峠を攻めてやろうと思ったのに、運転の下手なドライバーの後ろをついていく羽目になった。正人があからさまに安堵している。
「なぁ、正人。お前この前、『美葉を殺してしまう』言うてたけど、あれはどういう意味や?」
この数日考えて、結局分からなかった答えを保志はストレートに聞いてみた。正人はぎくりとした顔をしてから、頬を掻いた。
「……聞かないで下さいよ……。」
ぽつりと答える。
「嫌や。聞かんと分からん。」
正人のため息が耳に届く。ヘアピンカーブの途中で点滅したブレーキランプに舌打ちした。カーブの途中でブレーキを踏むとは、どれ程運転が下手なのだ。
「言いにくいんです、本当に。」
「何でやねん。」
保志はいらだった声で問う。正人はもう一度ため息をついた。
「……アキの事に触れてしまいそうで、怖いんです。」
「なんで触れたらあかんねん。」
正人は一瞬苦しそうに顔を歪め、窓の方へ顔を向けた。
「彼女には、人に言えない事情があるんです。僕は、ここまで話して良くてここからは駄目という判断をするのが苦手です。だから、彼女に関することは出来れば話したくないんです。」
「それで、美葉に弁解できへんかったんか?」
「そうです。言えないと伝えると、怒ってしまいました。当然だと思います。でも、それでいいんですよ。美葉さんはあの社長さんと一緒になった方が、幸せです。」
「お前、仁の何を聞いてたんや。」
保志は怒りを抑えけれず、僅かな直線に対向車がいないことを確認すると、急加速で前の車を追い抜いた。
正人の悲鳴を聞きながら。
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