この世の人と自分が幸せであるために
どう考えても分からないことだらけで、毎日が辛かった。でも、辛い気持ちを手放せる方法を見付けた。
勉強に没頭すること。
良い成績を取ればお母さんに褒められる。だから休み時間はずっと勉強をしていた。集中していたら、周りの音は聞こえなくなる。悪口を言われても、聞こえない。特に数学が好きだ。パズルを解くように難解な数式をほどき、答えが見つかった時は本当に嬉しい。
「正人君。いつも楽しそうに数学解いてるね。凄く難しそう。中学で習う奴じゃないでしょ?」
ある日の帰り道、女の子が声を掛けてきた。同じクラスの女の子だ。何時だったか、大雨の日に傘を忘れて困っていたので持っていた傘を貸してあげたことがある。「女の子はか弱いから守ってあげないといけない」とお母さんに言われていたから。
「違うと思うよ。お父さんの書斎にあった本なんだ。」
「凄いね。私数学苦手なんだ。今度勉強教えてよ。」
「うん、いいよ。」
それから時々、図書室でその子に勉強を教えてあげるようになった。
ある日約束の時間に少し遅れて図書室に行ったら、その子は同じクラスの女子に囲まれていた。
「今日もあの変な子と勉強?」
「やめときなよ。あんたまで変人だと思われるよ。」
「え……。まさかもしかして、あの変人のこと、好きになったとか?」
その子は、俯いたまま首を横に振った。
「……そんなんじゃ。……そんなんじゃない、から……。」
正人は図書室を通り過ぎた。それきり、二人で勉強することも、言葉を交わすことも無かった。
高校生になっても、同じ事だった。友達がいない寂しさも、こそこそとささやかれる悪口も、勉強に集中することでシャットアウトする。ただ少し変わってきたのは、将来のことを意識し始めたことだ。折角勉強するなら、将来の目標に向けての方がいい。父の書斎にある身体拡張システムの本は興味深かった。手を失った人が脳で考えただけで義手を動かし、視力を失った人の脳に直接映像を伝えることで視力を補う。この研究なら、こんな自分でも人の役に立つことが出来るかも知れない。
父と同じ大学へ行こう。お母さんは父を素晴しい学者だと褒めていた。父と同じ研究をする学者になったら、お母さんはきっと喜んでくれるだろう。そう思って、ひたすらに勉強を続けた。
「正人君って凄いよね。ずっと学年一位だよね。」
隣の席の子が話しかけてきた。
「そうなの?順位とか、あまり気にしたことない。高校の順位がどうであれ、行きたい大学に受からないと意味ないから。」
「へぇ、なんか格好いいね。」
それから、彼とは時々話をするようになった。休み時間に誰かと会話をして過ごすなんて、初めての経験だった。初めて学校へ行くのが楽しいと感じた。
中間試験の時のことだ。数学の問題を10分程で解き終え、時間を持て余していた。
隣の席から、大きな溜息が聞こえた。チラリと横を見ると、彼は必死で答案用紙を指でこすっている。尋常ではないほどの焦りを感じとった。
消しゴムを忘れたようだと、正人は気付いた。だから、自分の消しゴムを彼の机に置いた。もう自分はテストを終えたので、必要ない。だから、貸した。当たり前の親切心だった。
「そこ!何をしている!」
教師の怒号が聞こえた。
正人の行為は、カンニングと見なされた。消しゴムには何の細工もしていないのに。証拠がないのに決めつけるのはおかしいと言ったら、教師に口答えをするなと怒鳴られた。
二人は、3日間の停学になった。
「余計なことをしてくれたよね。君にとっては大した事じゃ無いかも知れないけど、成績がぎりぎりの僕には致命的だ。停学みたいな汚名は入試の足かせになるんだ。」
それきり、彼は二度と口をきいてくれなかった。
――何故自分はいつも一人なのだろう。
最初から、変な人間だと避けられる。数少ない言葉を交わしてくれる人も、去って行ってしまった。
自分が今いる世界の事を理解できない人間は、人と付き合う資格もないらしい。多分自分はとても奇異な存在なのだ。だから、人から嫌われるんだ。
自分のいないところで、人々は楽しそうに笑う。自分がそこに近付くと、笑いが途切れ眉をひそめる。
自分は、一人でいる方が、世の人々は幸せであるらしい。
それなら、それでいい。
自分の世界に没頭していよう。結局それが人にとっても、自分にとっても幸せなことであるようだ。
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