この世界のルールが分からない
校庭の片隅で蟻を見付けた。
東京には、驚くほど昆虫がいない。札幌にいた頃はバッタや蝶々を捕まえるのが好きだった。土を入れた虫かごに捕まえた蟻を入れていたら、洞窟のような部屋が沢山できた。「科学に対する好奇心が旺盛でいいわね。」とお母さんに褒められて嬉しかった。でも、東京は地面がみんなアスファルトに覆われていて、バッタも蝶々もいない。だから、蟻を見付けたときは久しぶりに友達に出会ったような気がして嬉しかった。
蟻は行列を作っていた。みんな口に白い小さな塊を咥えている。辿っていくと、スナック菓子が一つ落ちていた。蟻たちはスナック菓子から小さな塊を剥ぎ取り、巣穴へ運んでいる。
このかっぱえびせんがなくなるまで、蟻は仕事を続けるのだろうか。どれくらい、時間が掛かるのだろうか。
正人は校庭に腹ばいになって、スナック菓子に群がる蟻を凝視していた。
「いた!正人、いたよ!先生!」
世界の外側から聞こえた声にびくりと身体を震わせたとき、乱暴に腕を掴まれ立ち上がることを余儀なくされた。男の先生が怒った顔で見下ろしている。昔お母さんに読んでもらった絵本の中の鬼に似ている。
「授業はもう始まっているんだぞ!お前がいなくなったから、皆で探す羽目になった!」
教室に帰ると、皆の前で謝るように言われた。
教壇の横で頭を下げると、冷たい視線と空気が矢のように降り注ぎ、居たたまれなくなった。反射的に教室を飛び出そうとしたが、担任に腕を掴まれた。
仕方なく戻った自分の席で、正人は身体を小さく丸めた。
「気持ち悪い奴だよな。」
「お母さんが言ってたよ。天才とキチガイは紙一重なんだって。」
「キチガイって?」
「頭がおかしいって事。」
さざ波のように聞こえる悪口に、溺れそうになる。息苦しい。よく分からない。この世界がよく分からない。
「さあ、授業を始めるぞ。正人のせいで時間が遅れてしまった。」
先生はくるりと背中を向けて、算数の式を書き始めた。
6㎞は□m
8500mは□㎞□m
「○○君、解いてみなさい。」
先生に指名され立ち上がった少年は、無言で俯いている。
「6000m、8.5㎞。こんなことも分からないの?」
答えが分かった正人は大声で言った。
「違うよ、8㎞500mだよ。」
どこからか声が聞こえた。思わず正人は声の主を嘲笑った。
「そんな言い方普通しないよ。正解は8.5㎞だ。」
「木全正人!」
担任の怒号が言葉の終わりをかき消した。
「確かに、8.5㎞と正確には言うが、まだ学校では習っていない。別の場所で習ったからと言って、偉そうに知識をひけらかすな。それに、人を馬鹿にするような発言はやめなさい。言われた人は心が傷付くだろう!」
きつい言葉が胸に刺さって俯く。
「僕、別に他の場所で習ってなんかいない。」
「お父さんが学者だから塾へ行かなくても教えて貰えるのだろうが、他の子はそうでは無い。恵まれた環境であることを自慢するんじゃない。」
「お父さんは一緒に住んでいないから勉強を教えて貰う事なんてない。」
「黙れ!いちいち教師の言葉に口答えするな!このクラスはお前のせいで他のクラスよりも授業が遅れているんだぞ!」
分かって貰いたくて紡いだ言葉を否定される。どうすれば分かって貰えるのが足掻いた努力が皆の迷惑になると言われる。自分の言葉が、人の心を傷つけると叱られる。
心が傷付く。
皆、心を持っているの?自分以外の人は、心なんて持っていないと思っていた。だから、自分に対して平気で傷付く言葉を浴びせるのだろうと、解釈していた。だけど、違うのか。皆心があるのか。ではなぜ、いつも自分は傷つけられるのだろう。自分が人を傷つけると酷く怒られるのに。
分からない。
『社会にはルールがあるのよ。そのルールを守らないと駄目なのよ。』
お母さんが、いつも言う。
でも、そのルールがよく分からない。守らなければと認識したルールは、自分に対して当てはまらない。だから、自分の解釈は間違っている。もう一度考え直しだ。でも、どこにも一貫したルールを見付けられない。
難しい。どうすればいいのか分からない。難しい。分からない。分からない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます