初めての朝-3

 振り返ると、美葉の姿が無かった。

 体育館の二階にある宿直室は六畳一間で、小さな台所とストーブと万年床のせんべい布団しか無い。身を隠す場所は無いはずだ。


 そう思い部屋を見渡してすぐに、布団が不自然に盛り上がっていることに気付いた。


 そっと重たい掛け布団を持ち上げる。布団の中には、うつ伏せのまま大の字に横たわる美葉の姿があった。


 「ど、どうしました、か?」

 思いがけないものを見付けて、戸惑いながら声を掛ける。


 「せ、せんべい布団と同化してみた……。」


 顔を敷き布団に埋めたまま、美葉が恥ずかしそうに言った。その言葉に、思わず吹き出してしまう。美葉は頬を赤くして起き上がった。


 「もう、笑いすぎ……。」

 唇を尖らせる。その表情がかわいらしくてにやけてしまう。正人は、先ほど思いついた事を人差し指を立てて美葉に伝えた。


 「美葉さん、お出かけしないと行けないんですよ、二人で。」

 案の定美葉はきょとんとした顔をこちらに向けた。

 「16時40分着の飛行機で美葉さんは帰ってくるんです。当別に到着するのは早くて18時頃。それまで二人でお出かけしていないと、親父さんに怪しまれてしまいます。」


 「二人でお出かけ……。」

 呟いてから、美葉ははっと顔を上げた。


 「それって、デートじゃん!」


 「はい!」

 頷いた正人の顔がニターッと緩む。美葉も頬を赤く染めて口元を綻ばせた。


 「じゃあ、準備しないとね!」


 枕元の下着や洋服をかき集め、非難めいた視線を正人に向けた。その視線の意図を察し、正人は美葉に背を向けてカーキ色の作業着に袖を通す。


 「……デートなのに、作業着……。」

 美葉がぽつりと呟く。申し訳なくて、ぼりぼり頬を掻いた。


 正人は、二着の作業着と礼服しか着るものを持っていない。一応、カーキ色の作業着はお客さんのお宅を訪問するときなどに着るよそ行き用なのだが。


 作業着姿の男とデートなんて、恥ずかしいだろう。こんなことなら、普段着くらい買っておけば良かった。正人は後悔しながら頬をポリポリと掻いた。


 「じゃあ、正人さんの洋服を買いに行こう。私が買ってあげる!ちょっと遅くなったけどクリスマスプレゼント!」


 背中で美葉がパチンと手を叩いた。振り返ると、美葉はもうオフホワイトのニットワンピースに着替えていた。胸元には、6年前のクリスマスに送った芍薬のペンダントが揺れている。そういえばあれ以来美葉にプレゼントを贈っていない。


 「……じゃあ、僕も美葉さんに何か……。」


 とはいえ、女性が喜ぶものなど自分が見繕うことが出来るだろうか。戸惑っていると、美葉がぽっと顔を赤らめモジモジと身体を捩った。


 「じゃあね、欲しいものがあるの。」

 「ええ、何ですか?何でも言ってください!」

 リクエストしてくれたら、ありがたい。正人は思わず身を乗り出した。


 「お布団、買い換えない?高い物じゃなくていいから……。」

 かなり遠慮がちにそう言われ、正人も首から上を真っ赤に染めた。


 創立から百年以上経つ小学校の宿直室にあったせんべい布団。いつから使われ、何人の人が使ったのか不明だ。そして、自分が使い出してからは万年床となり、一度も干したことが無い。


 「絨毯も、年季が入ってるね……。」


 底冷えしないように敷き詰められた絨毯は今はくすんだグレーだが、元の色が何色だったのか分からない。至る所にシミがある。特に、ストーブ付近の大きな醤油のシミは薄汚さを格段に引き立てている。


 「そして、メイクしたいんだけど鏡が無い……。」


 そうだ、自分は鏡を見る習慣が無い。風呂は谷口家に行って入らせて貰っており、その時に髭を剃るが、時折風呂の間隔が空きすぎて和夫に叱られる。そんなときは大抵延びすぎた無精髭に驚くことになる。


 「これからも、お泊まりしたいから、環境を整えて欲しい、です。」

 美葉が頬を赤らめて俯いた。


 「はい!」

 正人も顔を赤らめ、直立不動で返事をした。

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