温泉へ行こう

 温かい湯につかって、やっと美葉の頬に赤味が戻ってきた。


 放心状態の美葉を見て、母の波子が「温泉に行こう」と言った。返事を待たずさっさと三人分のタオルを準備すると、ハスラーの後部座席に乗り込んだのだ。


 目指したのは、隣村の温泉だ。塩分濃度が強いアルカリ性の温泉は、身体の芯から温まる。露天風呂には半身浴をするのに最適な岩が沢山あって、何時まででも入っていられる。食事も美味しいし、地元の野菜や果物を使ったジェラートを売る店もある。昔から、森山家お気に入りの日帰り温泉なのだ。


 佳音が波子に一部始終を話している間、美葉は黙って露天風呂の外に広がる空を見ていた。雲一つ無い青い空に夕方の気配が混ざっていた。


 「こんな大事なことを黙っていたなんて、信じられない!」

 ぶり返した怒りを吐き出したときだった。


 美葉が、ははは、と声を出した。


 笑い声と同じ発音だが、感情がこもっていない。だから、笑い声だとは到底認識できなかった。


 「笑っちゃうよね。私、正人さんはずっと自分の事が好きなんだって勘違いしてた。笑っちゃうよね。」


 もう一度、ははは、と声を出す。


 「美葉……。」


 否定しようとしたが、その先の言葉を紡げない。正人は美葉を好きだったはずだ。だけど今はその証拠を見付けることが出来ない。見つかったとして、それが今の美葉にとって救いになるのかすら分からない。


 「椅子、あの人のだったね。正人さんは、あの人への気持ちを抱えて当別に来たんだね。それからずっと、片時も離さずに側に置いていた。正人さんの心には、ずっとあの人と子供の存在があったんだよ。」


 透明の湯から立ち上る白い湯気は、美葉の顔を歪めていた。


 「皆で集まったとき、正人さん、あの椅子の背もたれに額を付けて苦しそうな顔をしてた。きっと、私と付き合いだしたことを懺悔してたんだわ。」

 正月に樹々に集まった時のことか。確かに、のえるの為に椅子を取りに行った正人が、いつまで経っても戻ってこなくて、美葉が呼びに行った。


 「彼女がいたのかも知れないって思ってたけど、まさか結婚歴があったとはね。意外すぎて、笑えるわ……。」

 美葉はぎこちなく口角を持ち上げた。


 「怒んなさい。」


 波子が美葉の後れ毛を耳に掛けた。そのまま、手を美葉の頬に添える。


 「あんたは、傷つけられたんだよ。正人は、酷い奴だ。怒んなさい。罵りなさい。無理に笑う必要なんて無いの。」


 息を飲むように、美葉は唇を結んだ。頼りない視線を波子に向ける。その目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ヒクヒクと肩が上下する。唇から漏れる小さな嗚咽が、露天風呂の天井に跳ね返り、湯気にとけていく。


 「一度も、見てくれなかった……。あの人が現われてから、正人さん一度も、私の顔見てくれなかった……。」


 嗚咽に、美葉の本心が混ざる。佳音はぎゅっと目を閉じた。


 正人は、ずっと美葉を見つめていた。高校生の時からずっと、美葉を慈しむ眼差しで包み、その姿を見るだけで嬉しいのだと言わんばかりにいつも微笑んでいた。


 その姿が、偽りであるわけが無い。


 家具作りの腕と美葉を思う真剣な気持ち。それだけしか正人には無い。一人で生きていくことも出来ない、三十路に近い頼りない男。その男の人生を背負い、共に生きる事を喜んでいたのに、裏切るなんて。


 佳音の心に、怒りが湧いてくる。


 「一旦、京都に帰ろうかな。」

 美葉は手の甲で顔を拭い、鼻を啜ってそう言った。


 「お隣さんってのは、やっかいだね。おまけに家族だしね。どんな顔して一緒にご飯食べたら良いのか、分かんないや。」


 波子が頷いた。

 「今は、逃げたって良いと思うよ。」


 そう言いながら、ポンポンと頭を叩いた。


 「だけどね、喧嘩別れみたいな事しちゃ駄目だよ。あんた、気が強いから。時間を置き過ぎるのも、良くないよ。お互いの中で拗れちゃうと収拾が付かなくなるからね。気持ちのほとぼりが冷めたら、ちゃんと向き合って話し合うんだよ。」


 「うん。」

 美葉は、子供のように頷いた。佳音は美葉の手を掴み、膨らんだ自分の下腹部に置いた。美葉は涙の跡が残る顔を佳音の方に向ける。


 「私、この子を抱っこする順番を決めているの。一番は錬。二番はお母さん。……美葉は、三番目。だから、この子が産まれるときにはちゃんと当別に居て、正人さんと仲直りしていてよ。」


 美葉の唇が、うっすらと持ち上がった。

 「まじかぁ……。瑠璃姉よりも先かぁ……。」


 小さな呟きに、からからと波子の笑い声が被さる。


 「責任重大だね!後が閊えてるからちゃんと当別に帰ってないと駄目だね!」


 美葉は困ったように眉を寄せながら、頷いた。

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