怒り-1

 「正人!」


 飛び出すように出て行った正人を、悠人がすぐに追いかけた。保志がやや遅れて外に出ると、用水路を渡ったところで腕を掴まれている正人を見付けた。その顔はまだ怒りで上気し、身体はワナワナと震えていた。


 正人にこんな暴力的な一面があったとは。普段の穏やかさとのギャップに戸惑いを隠せない。だからこそ、このまま一人で帰すわけにはいかないと思った。


 「雰囲気、悪くしてごめんなさい。」

 顔を背けてそう言い、身を翻して歩き出す。悠人は嘆息し、歩調を合わせて歩き出した。保志も足音を偲ばせて後を追う。


 輝季も、癇癪を起こして手が付けられなくなる事があった。そういう時に無理矢理押さえつけても怒りがヒートアップするだけだった。かといって、癇癪を起こすままにしておいても怒りはどんどん膨らんで行く。毎回対処に困り、結局は怒りを怒りで押さえつけて黙らせる事しか出来なかった。


 一度駒子ははおやがいる時に癇癪を起こした事があった。駒子は動じることなく輝季の手を引いて外に出た。一時間程して帰ってきた時には、輝季はシュンと大人しくなっていた。


 『歩くのが一番、落ち着くみたいやね、この子は。』

 『たまたまや。自分に甘いばあばが一緒やったからや。』

 その時は馬鹿にした対応をしたが、後に自分も怒りが収まらない時は、とにかく動き回っている事に気付いた。


 蛙の鳴声に虫の音が混じっており、もうすぐ夏が終わることを伝えている。きらびやかな花火が去った夜空には星が瞬き、本来の静けさを取り戻している。正人はイライラした歩調で天之川に向かって歩き続けている。


 やがて交差点にさしかかった。この辺りで唯一信号のある交差点だ。正人は通る車もいないのに、赤信号で律儀に足を止めた。悠人がその斜め後ろに立つ。


 「……怒り出すと手が付けられなくなるところは、父親そっくりなんだって。」


 赤信号を見つめたまま、正人は呟いた。声はまだ、とげとげと尖っている。


 「怒りが頂点に達したら、何も分からなくなるんだ。体中が怒りで一杯になって。小学生の時、同級生を殴って、歯を折ったことがある。」


 『一緒にいたら、僕はいつか美葉さんを殺してしまう。』


 いつか、正人はそう言った。その言葉の意味は未だに理解できないが、この事なのだろうか。怒りにまかせて、美葉を傷つけてしまう事を、恐れているのか?


 「俺もあるよ。」


 え、と正人は振り返った。悠人は小首を傾げて見せた。多分例の爽やかな笑顔を正人に見せているのだろう。


 「俺も小さいときは口より手の方が早く出る質でさ。親父によく怒られた。でも、大きくなるにつれて怒りを闇雲に表に出さないように、コントロールできるようになったよ。正人もきっと、コントロールできるようになるさ。」


 「なるかな。」

 正人は悲しそうに俯いた。


 「本当に、希なことなんだ。普段そんなに怒ることは無いのに、瞬間湯沸かし器みたいにわーっと怒りが沸き起こってしまうことがある。僕って、やっぱりおかしいんだろうね。」


 自虐的な笑い声と共に、肩が小さく震える。悠人が大きく首を横に振った。


 「正人は個性的だけど、おかしいわけではないよ。」

 「おかしいよ、普通の人間じゃない。」


 悠人が正人の肩に手を回し、ぐいっと自分の方に引き寄せた。


 「それでもいいよ。」


 赤信号の光が二人を照らしている。困った顔を正人は悠人に向け、悠人はよどみない笑顔を正人に向けている。


 「どんな正人でも、俺のマブダチさ。」


 信号の色に染められなくても、正人の顔は赤いのだろう。そう思うとおかしくて笑いが込み上げてくる。慌てたように目を見開いたまま、言葉を失っているようだ。怒りはどこかへ、消えてしまっている。


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